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【やばいぞ日本】第5部 再生への処方箋 夢と憧れの扉たたき続けた
子供のころからの夢と憧(あこが)れだったロシアの名門ボリショイ・バレエ団入団を求め、毎日通い詰め、重い扉をたたき続けた。だが、建物の中にさえ入れてもらえない日々が過ぎていく。
唯一の日本人ダンサー、横浜市出身の岩田守弘(もりひろ)さん(37)の苦闘の時代であった。
1993年、バレエの神髄を学ぶため、ソ連に留学して4年目、「モリ」と呼ばれる彼は23歳だった。モリはその少し前、世界3大国際バレエ・コンクールである若手ダンサーの登竜門、モスクワ国際バレエ・コンクールで金賞を獲得した。その1年ほど前には全ロシアで唯一のバレエ・コンクール、アラベスクで最高のグランプリ大賞を史上初めて受賞した。
所属していたバレエ団を辞め、背水の陣を敷いたそんなころ、思いだすのはいじめられた幼年時代だった。友達に1カ月くらい口をきいてもらえず苦しかった。「自分が強くなれば、いつか同じような子を助けてあげられる」。そう思って乗り越えた日々がよみがえった。約1年ほど通い続けたある日、チャンスが突然訪れた。
研修生として入団を許されたのである。「ロミオとジュリエット」の道化役をもらった。
だが、うまく踊れなかった。恩師は「ひどい舞台だ」と一言。情けなさと悔しさがこみ上げ、みんなが45分のレッスンを1日1回するところを、3レッスン連続で行った。帰宅後もビデオを見て必死にバレエの巨匠たちをまねて練習を重ねた。
そのころ、外国人に冷ややかだったボリショイの伝統も、ソ連崩壊とともに変わった。契約制に移行し、95年に初めてオーディションが行われた。モリは主役で踊ることを許される「ソリスト」に選ばれた。
だが、ソリストと言っても、舞台の数が少なかった。「よそ者」への冷ややかさは簡単にはなくなりはしなかった。
ボリショイには、足が高く上がり、若くて実力あるダンサーが数多くいた。モリは166センチ。ロシア人と比べ小柄だ。主役が務まらないこともある。
「つらいが事実です。でも、だからこそ、高く跳べるようになった。人には自分の持ち場がある。どんな小さな役でも一生懸命やれば、喜びは必ず見つけられます」
モリは今、「バレエ衣装をまとったサムライ」(有力日刊紙イズベスチヤ)と紹介されている。これまでに200回以上の舞台をこなし、4年前からは中心的なダンサーである第1ソリストだ。約250人の踊り手を抱える世界最大のバレエ団で、わずか13人しかいない現在の地位を得た。その肉体は鍛え抜かれ、高い跳躍と鋭い回転はひと際目立つ。情感豊かで、時にユーモラスな演技は観客を魅了し、大きな拍手と「ブラボー」の熱い声援が送られる。
ロシア・バレエ界の巨匠で、振付家のミハイル・ラブロフスキー氏はこう評価する。
「モリは、拝金主義に侵されたロシア人ダンサーが失いつつある精神の力を信じている。その力は、肉体の力とは異なり無限だ。精神の力を重視したサムライの魂を宿した芸術家だ」
日本に安住するより、思い切って外に飛び出し、自らを鍛えたモリに頑張りの秘訣(ひけつ)を尋ねると彼はこうほほえんだ。
「どこからエネルギーが出てきたのでしょうか。美しいものに憧れていたんですね」(内藤泰朗)
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■「必ず孫悟空になるのだ」
「京劇の虜(とりこ)になった苦行僧」(北京晨報)、「夢追人」(中国戯劇誌)といった見出しで、中国メディアから報じられている日本人の京劇俳優がいる。石山雄太さん(32)(本人提供)。京劇界の最高峰、中国京劇院(現・中国国家京劇院)メンバーで、初めての外国人京劇俳優だ。
一人っ子世代の甘えた若者が増えている中国で、夢のために厳しい修業に耐え、異文化の壁を越えた石山さんのガッツは中国人にとっても新鮮だった。
11月、天津外国語学院で開かれた第3回日中友好の声全中国日本語弁論グランドチャンピオン大会に、石山さんは特別審査委員として列席した。幕あいに、京劇「鬧天宮(とうてんきゅう)」(孫悟空大暴れ)の一部を披露した。
そこには孫悟空がいた。如意棒をくるくる回しながら舞台の右へ左へ、はね回る。北京在住の作家・莫言氏が「石山の孫悟空は原作の精神を裏切ることなく大胆にアレンジを加えている」と絶賛したのもうなずける。
石山さんは、中国一の日本語スピーカーの座を競う中国人学生たちにこうエールを送った。
「京劇のせりふは先生の口移しで覚えるのですが、少しでも発音を間違うと、先生から太鼓のバチで口をつつかれる。何度も間違い、口の端が切れて血が流れます。でも、そうやって身につけた言葉は忘れることはありません」
14年前、高校卒業と同時に中国の梨園(りえん)という異文化の極地に単身飛び込んだ無鉄砲な自分を思いだしたのか、顔が少し赤かった。
東京・浅草生まれ。小さいころはぜんそく持ちの病弱な少年だった。小学生のとき、テレビ中継で偶然みた京劇の孫悟空に心を奪われた。「私のスーパースター。あんな孫悟空になりたい」と。
近所の中国語教室に通い、大人にまじって地域の京劇研究会に参加した。高校は私立関東国際高校の中国語コースを選んだ。両親はあきれかえりつつ黙ってやりたいようにさせてくれた。
1993年、京劇役者の養成機関である中国戯曲学院付属中学に留学した。
修業は過酷を極めた。
足をバーに縛って逆立ち45分。鼻血がぽたぽたと落ちてくる。自分が孫悟空を演じる姿を思い浮かべて踏ん張り続けた。
孫悟空の役づくりを研究するため、休日には動物園に通った。「サルがモノを食べる表情やちょっとしたしぐさを見詰めていた。そのうち自分の五体にサルの感覚を染みこませるような感じになるのです」
生活費も切りつめた。「ひざのぬけたズボンや片袖のとれたシャツなんか着ていたら、先輩が気の毒がってコートなどを譲ってくれた」
付属中から大学まで8年の専門教育をうけて2002年、中国京劇院の入団テストにパスした。「今に至るまで、必ず孫悟空になるのだ、という思いが自分をささえてきた」
石山さんはこうも語った。「ただ好きなことをやってきただけ。日本では好き勝手やっている若者がニートだ、フリーターだと嘆かれているけれど、自分も同じ」。それでも日本社会には自ら進路を選び、チャレンジできる自由があった、と振り返る。
「まだまだ旅の途中の孫悟空」。始まったばかりの石山さんのドラマは、新しい世界に飛び込み挑戦しようという人たちに夢と勇気を与え続けている。(福島香織)
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最終部は、海外で活躍する日本人などを追いながら、日本再生への処方箋(せん)を探る。


