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華国鋒氏死去 時代に敗れた毛沢東主義者 (1/2ページ)

2008.8.20 23:24
このニュースのトピックス中国

 「彼には何も独自のものはなかった。ただ(毛沢東路線を全面肯定する)『二つのすべて』だけだった」。毛沢東の後継者、華国鋒氏について、●(=登におおざと)小平氏は1989年6月、そう評し、毛に次ぐ第二世代の代表は自分だと話した。

 しかし、華氏が江青・毛沢東夫人ら「四人組」の逮捕を決断した「功績」は、今日も高く評価されている。それがなければ、●氏が生涯3度目の復活を遂げ、改革・開放へ歴史的転換をすることもなかったかもしれなかったからだ。

 華国鋒氏の出自にはなぞが多い。公式資料では、出身地の山西省で少年期から抗日ゲリラ戦で活躍、新中国誕生後、毛沢東の郷里、湖南省湘潭県党書記に就任。以後、同省で党書記などを歴任した後、69年に党中央委員に抜擢(ばつてき)、73年には政治局入りと栄進を続けた。その間、59年の彭徳懐国防相解任事件では、彭氏を攻撃する材料を毛沢東に提供したといわれる。

 「なぞ」とは、なぜ山西省出身の華氏が毛の郷里の守り役に選ばれ、トントン拍子の出世をしたかに起因する。中国筋によると、華氏は毛沢東の「隠し子」で、本人がその公認を政治局に求めたことがあったという。

 76年1月に死去した周恩来首相の後任に、毛沢東が無名の華氏を選び、同4月の第一次天安門事件後には、党第一副主席に指名、事実上の「後継者」とするなど、その寵愛(ちようあい)ぶりから、「隠し子」説が広まった。

 76年9月に毛沢東が死去、江青夫人ら四人組との後継争いが起こると、華氏は葉剣英氏ら軍長老の助力を得て四人組逮捕を決行、2代目の党主席に就任した。しかし、毛沢東を崇拝、文革路線の全面継承を掲げた結果、文革被害者グループの挑戦を受けた。

 その頂点にいたのが、第一次天安門事件で3度目の失脚をした●小平氏。●氏は、広範な国民の人気をバックに長老らの支持を広げ、毛沢東派の抵抗を押し切り、77年夏復活を遂げる。そして78年5月、毛沢東の無謬性を打破する思想解放運動を展開、同年12月には文革路線から改革・開放への転換に成功した。

 ●氏が事実上の最高実権を握った後、文革派は次々に追放され、華国鋒氏も81年6月、主席を辞任して副主席に降格、82年にはひらの中央委員になり、2002年に落選するまで留任した。華氏は毎年12月26日の毛沢東誕生日には天安門広場の毛沢東記念堂への参拝を欠かさなかった。

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