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【正論】「ラサ」の悲劇と「北京」の笑劇 評論家・西部邁 (1/3ページ)
スポーツは政治である
テレ(遠方)からのヴィジョン(映像)でスポーツを観るのは、三流のお笑い芸へのそれと並んで、現代文明の重要な一部となっている。しかしスポーツという言葉の語源が「外れた」(ディス)「振る舞い」(ポルト)であることを知っている者はほとんどいない。日常生活から外れた振る舞いは「あそび」である。「あそび」が健全な文化であることをやめてピュエリリズム(文化的小児病)にはまるのは、ホイジンガがいったように、「聖なる感覚」と「厳格な規則」を失うときだ。その典型が「大がかりなスポーツ・ショー」である。
現代政治は聖なる感覚や厳しい規則とますます無縁になってきている。だから、民主主義のであれ全体主義のであれ、大衆政治はスポーツ・ショーをプロパガンダ(政治的宣伝)として利用してきた。その見本が(1936年の)ナチス・オリンピックであり、聖火リレーもナチズムの宣伝の一環であった。
北京オリンピックを「平和の祭典」とみる我が国での主流の世論は、それ自体として、文化的小児病の一種とみなさなければならない。中国は、チベッタン(チベット人)にたいし、半世紀に及んで民族浄化の野蛮をほどこしてきた。それゆえ、首都ラサでの暴動や世界各地での聖火リレーへの妨害によって、チベッタンが中国の政治宣伝にたいして逆宣伝を仕掛けたのは自然の成り行きである。それを「不法の力」(暴力)と難ずるのは、民族浄化が国際法の大前提への破壊行為であることを見逃している。
民族浄化の大罪
たしかに、人権の具体的な内容を国際法で規定するのは難しい。人権についての抽象的な規定は、自由や平等の理想として、国際法でも明記できるであろう。しかし、秩序なしの自由も格差なしの平等も夢想にすぎない。そして秩序や格差が各国の歴史に依存するからには、自由・平等の普遍的価値をかかげる人権外交は、一般に、偽善と欺瞞(ぎまん)に落ちていく。

