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挑発に怨念噴出 チベットの哀しみ ペマ・ギャルポ氏 (3/5ページ)
▼幼少時に雰囲気一転
私は53年6月、現在の四川省の甘孜(ガンズ)チベット自治州で生まれた。
父はもともとは藩主ということもあって、51年に北京政府と結んだ条約に基づいて、県長にもなった。中国側は私のことを「藩主の子」と呼んでかわいがってくれた。家に毛沢東、劉少奇、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの4人の写真が掲げられていたのを覚えている。人民解放軍の兵士たちも一生懸命、人を助けたり、私もあめ玉をもらったことがある。
ところが、それがある日、がらりと雰囲気が変わる。子供でも、毛沢東の写真に、傷を付けたりして喜ぶようになった。
私の村では水道がないので、水を川からくんでくるのが女の子の日課になっていたが、中国軍に届け、乱暴されたことが何回かあって、それがきっかけで摩擦が起きた。そこで村民が立ち上がった。
それは1957年ごろだったと思う。逃げながらラサまで行った。何度か追っ手の中国軍と戦い、村を出た当初は200人の大きな団体だったが、インドにたどりついたときは20人ぐらいになっていた。後から聞いたら、残ったおばあさん2人と兄2人は、餓死したり、射殺されたらしい。
人々の話では、一番辛かったのは、人民裁判で、奥さんが旦那(だんな)さんを、子供が親を告発したりしたことだという。人民裁判では、殴ったりしなければならなかった。
僕の父には、妻が2人いた。つまり私には母が2人いた。年下の母は共産党に非協力的で、騒乱を起こしたうちの1人だ。
その下の母には、そっくりのいとこがいて、(中国軍は)その人を殺して見せしめにした。下の母を捕まえ、処刑したように見せかけたらしい。
先代のパンチェン・ラマが亡くなる3カ月前に東京の中国大使館で会った。そのとき、一番辛かったのは刑務所で人としゃべれなかったことだと言った。彼は19年間独房に入れられていた。僕たちと会ったときも言葉がたどたどしかった。
チベット全土では、家族が全員そろっている人はいないと思う。必ず、誰かが犠牲になっている。




