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【トウ小平秘録】(146)第6部「先富論」の遺産 総統の密使

2008.2.14 03:28
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台湾の総統府内にあった蒋経国氏の執務室。死去後の1996年、蒋介石、経国父子の遺体が仮安置された桃園県慈湖の「頭寮陵寝」に復元された=2006年7月(長谷川周人撮影)台湾の総統府内にあった蒋経国氏の執務室。死去後の1996年、蒋介石、経国父子の遺体が仮安置された桃園県慈湖の「頭寮陵寝」に復元された=2006年7月(長谷川周人撮影)

 ■「反共でもかまわない」

 1971年のニクソン米大統領訪中計画発表(実現は72年2月)に次ぐ中国の国連加盟(台湾は脱退)以来、台湾の国民党政権は「経済立国」に活路を求めた。

 79年には、二つのショックが蒋経国(しょう・けいこく)総統率いる国民党政権を見舞う。米中国交樹立と美麗島事件だ。

 後者は、台湾で政党設立の自由を求める民主化グループを官憲が大弾圧した事件で、米国を中心に厳しい批判が巻き起こり、国民党の一党支配が動揺した。81年にレーガン政権が登場、その親台政策で米中国交による衝撃は和らいだものの、長くは続かなかった。

 レーガン大統領は83年に「悪の帝国」ソ連との対決のため、対中戦略を一変させ、84年1月には趙紫陽(ちょう・しよう)首相が訪米、同4月にはレーガン氏が訪中して「繁栄した強大な中国」建設への全面協力を約束、実行していく。

 84年10月、米国在住の華人作家、江南(こうなん)氏が自宅で暗殺される事件が起こった。同氏は蒋経国氏の民主化運動抑圧を厳しく批判していた。ほどなく、台湾の情報機関関係者の犯行と判明。米国の政府・世論は猛反発し、台湾の民主派の政権批判を活気づけた。

 86年9月、蒋経国氏に、党外諸派が新政党結成大会開催中との情報が入る。解散させましょうか、という側近らに、蒋氏は「時代は変わった」とし、新政党「民進党」の創設を容認、国民党の一党支配に終止符を打った。

 蒋経国氏はその一方で、水面下で中国との「統一」を探っていた。

 それが正式に確認されたのは2005年5月、中国共産党対台湾工作指導室の弁公庁主任だった楊斯徳(よう・しとく)氏の中国誌への証言がきっかけだった。楊氏はその中で、蒋経国氏が86年から87年にかけて、沈誠(しんせい)という人物を密使として複数回北京に派遣し、中国指導部と接触した事実を明かした。

 これを機に沈誠氏を含む関係者が重い口を開き、秘密交渉の実態が明るみに出る。沈氏は、香港の会社経営者で、国共内戦時代の蒋経国氏の直系の部下だったという。

 関係者の証言を総合すると、沈誠氏は86年6月の訪中では対台湾工作の責任者・楊尚昆(よう・しょうこん)軍事委常務副主席と会った。楊尚昆氏は20年代のモスクワ・中山大学留学中、蒋経国氏のルームメートだった。

 楊尚昆氏はその際、「第3次国共合作の構想」を話す。台北に戻った沈誠氏の報告を聞き、蒋氏は「北京の決定権はだれが握っているのか」と聞いた。それがトウ小平氏であるのを承知のうえで、あえて聞いたのは、「トウ氏に話を通す手順を間違えないようくぎを刺したのだ」と沈氏は受け取ったという。

 沈誠氏は翌年3月の訪中で、そのトウ小平氏に会う。この訪中は、中国側の招請によるものだった。沈氏はトウ氏に会うなり「私は反共ですよ」とあいさつすると、トウ氏はこう応じたという。

 「反共でも構いませんよ。反中でなければ」

 トウ小平氏は「一国二制度で、祖国の統一大業を完成しよう」と、蒋経国氏への伝言を沈氏に頼んだという。

                   ◇

 ■第3次国共合作は消えた

 1987年3月、蒋経国台湾総統の密使、沈誠氏が訪中した際、楊尚昆軍事委常務副主席は、(1)交渉は共産党と国民党間で、対等の立場で行う(2)まず双方間の協力問題を話し、その後統一問題に入る−と提案した。

 楊氏はその後、蒋氏に親書を送り「先生の国家統一への考えを聞き、深い印象を受けた。祖国統一と民族振興は、わが中華民族の崇高なる願望、歴史が国共両党に与えた神聖な使命であり、われわれ一代の手で完成できるよう望む」と伝えた。

 蒋経国氏はそれを読んで「彼らには誠意があるものの、事をあせっているようだ。交渉となれば党内の共通認識が必要だが、反対する人もおり、秘密保持の必要がある」と沈誠氏に述べ、交渉体制を整える考えを示したという。

 87年7月、蒋経国氏は、49年以来の戒厳令解除を発表、続いて11月には対中民間交流の解禁を決定し、「接触せず、交渉せず、妥協せず」という「三不」政策を自ら放棄。12月には沈誠氏に「北京に交渉に行く人選を終えた。来月初めの党中央常務委で決まるだろう」と話したという。

 「トウ小平年譜」によると、87年7月28日、トウ氏はある客人に対し「『中国は一つ』の前提への同意が、第3次国共合作の基礎だ」と述べている。「年譜」が匿名にするのは珍しく、蒋経国氏が沈誠氏以外の密使を送っていた可能性もある。

 88年元日、蒋経国氏は報道規制を解除した。野党民進党への柔軟姿勢で支持を広げ、統一交渉に臨む態勢に入ったとみられた。が、1月13日、蒋氏は急死してしまう。蒋氏は糖尿病で入退院を繰り返し、沈誠氏によると、中国側は蒋氏の病状を気にかけていた。

 蒋経国氏の死に北京は衝撃を受ける。中国共産党中央は国民党中央に弔電を送り、「一つの中国を堅持し、台湾の独立に反対した」と蒋氏を高く評価した。楊斯徳氏によると、文面はトウ小平氏の指示で作られたという。

 トウ小平氏は同年9月、チェコスロバキアのフサーク大統領に、「私の最大の願望は97年まで生き、返還された香港に行くことだ。台湾にも行きたいが、97年までに解決するのは難しいだろう」と話している。

 台湾で民進党が産声を上げ、本省人の独立意識も広がっていたが、密使が北京に送られた当時はまだ国民党の天下で、蒋経国氏は絶対的なストロングマンだった。トウ小平氏との“ボス交”による取引成立の可能性は、蒋氏の死で去った。

 蒋経国氏の後継総統に本省人の李登輝(り・とうき)氏が就いた後、「祖国統一」は中国側の宣伝文句以上の意味をなくしていく。(伊藤正、矢板明夫)

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【用語解説】美麗島事件

 1979年に起きた台湾の民主化運動弾圧事件。79年12月、施明徳氏ら民主化を求めるグループが作る雑誌「美麗島」の呼びかけで、高雄市内で行われたデモが警察と衝突事件を起こした。事件を理由に、台湾当局は関係者の大がかりな検挙に乗りだし、多くの活動家を反乱罪などで投獄した。しかし、世論や米国などは当局の強引なやり方を批判し、国民党政権の威信が大きく傷つく結果となった。

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台湾の総統府内にあった蒋経国氏の執務室。死去後の1996年、蒋介石、経国父子の遺体が仮安置された桃園県慈湖の「頭寮陵寝」に復元された=2006年7月(長谷川周人撮影)
晩年の蒋介石氏(左、1975年死去)と経国氏。台北市内の総統官邸で撮影されたとみられるスナップだ

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