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【トウ小平秘録】(145)第6部「先富論」の遺産 台湾問題
■ひとつだけ、やり残した
1989年5月16日、学生らの民主化運動が高まる中、中ソ和解のため歴史的訪中をしたゴルバチョフ・ソ連共産党書記長(肩書は当時、以下同)にトウ小平(とうしょうへい)氏はこう話した。
「私の人生において、ひとつだけやり残したことがある。台湾問題だ。(生存中に)解決を見ることはおそらくできないだろう」
78年末に事実上の最高権力を握って以来、トウ小平氏は台湾問題の解決、つまり「祖国統一」の実現に手を尽くしたが、台湾の「独立」志向を食い止めることはできなかった。それに触れる前に、トウ小平時代の中台関係の舞台裏をみていく。
79年1月、米中国交樹立を受けトウ小平氏は訪米した。同月30日、米上下両院議員と会った際の発言が、米側を驚かせた。
「私たちは今後、(武力解決を意味する)『台湾解放』という表現を使わない。台湾の現実と制度を尊重したい」
台湾の現行制度と広範な自治権を認める「一国二制度」方式で、平和的解決を図るという宣言だった。その前年の国交交渉では、武力解決放棄を要求する米側に対し、台湾は内政問題として武力行使の権利を留保、要求を拒否したのに比べ大きな変化だった。
トウ小平氏の発言は、米国の経済協力引き出しのためのリップサービスとの見方が多かったが、中国ではその後「台湾解放」は使わなくなり、80年代に入ると「平和統一」攻勢が本格化する。
81年9月、全国人民代表大会(全人代)の葉剣英(ようけんえい)委員長名で、台湾に軍存続などを認める9項目提案によって平和交渉を呼びかけ、82年7月には、廖承志(りょうしょうし)全人代副委員長が、台湾の蒋経国(しょうけいこく)総統あて公開状で、同一民族の血と情を強調し統一を訴えた。
これに対し、蒋経国氏は「自由中国」と「共産中国」は両立しないとして呼びかけを拒否、「接触せず、交渉せず、妥協せず」の「三不」政策を厳しく実施していく。
この背景には中台間には当時大きな経済的ギャップがあった上、81年にレーガン米政権が発足、台湾防衛政策を明確にしたこともあった。
台湾の支柱である米国を取り込み、台湾側に圧力を加える中国の戦術は、レーガン政権の台湾向け武器輸出強化策でくじかれる。逆に台湾側は「三民主義による中国統一」、つまり台北中心の統一をスローガンに掲げ、外交的失地回復に力を入れだした。
そうした中で、米中対立に拍車をかける重大事件が82年7月に発生した。中国女子テニス界のスタープレーヤー、胡娜(こな)氏の米国亡命事件だ。米中関係だけでなく、中国内政にも影響が及んだ事件を仕掛けたのは、台湾当局だった。
当時の関係者は産経新聞の取材に対し「台湾側の対中工作で最も成功した一例」と話した。
■米中揺るがす亡命だった
中国女子テニス界のスタープレーヤー、胡娜(こな)氏は当時19歳。1982年7月、米カリフォルニア州で開かれた国別対抗戦フェドカップに中国女子チームの一員として参加した際、米国への亡命を企てた。
胡娜氏は四川省出身で、小学生のときからテニスを始め、17歳で全国大会を制覇、続いてアジアチャンピオンにもなった。中国スポーツ界の期待の星としてメディアがこぞって取り上げたスーパースターだった。
しかし本人は、それに満足せず、プロ選手として全米オープンなどに出場する、当時の中国ではかなわぬ夢を抱き、試合で接触した外国人選手にも漏らしていた。その情報をキャッチした台湾側はすぐに動く。
当時の関係者によると、台湾・国民党の秘書長(幹事長)蒋彦士(しょうげんし)氏の指示を受け、秘密工作員がひそかに胡娜氏に接近、米国でプロになるのに協力を約束した。
胡娜氏はアジアチャンピオンになった直後、出身地の共産党委員会から、入党を勧告する書簡を受け取っていた。工作員は「入党の強要は、米国では人権侵害とみなされ、政治亡命できる」と入れ知恵をした。
7月20日深夜、胡娜氏はパジャマ姿で宿舎を抜け出し、待機していた車で台湾側が用意した宿舎に移動し保護され、米国に亡命申請した。
この一件は国際的な大ニュースになり、米中関係は緊迫した。米世論も胡娜氏に同情、司法判断が出る前、レーガン大統領は「送還するなら私の養女にしたい」と発言し、中国側を硬直化させた。
翌83年2月、トウ小平氏は北京を訪問したシュルツ国務長官に、「胡娜事件は危険な例だ。(亡命を)認めれば、連鎖反応が起き、両国関係に重大な影響を与える」と警告した。
しかし、胡娜氏の政治亡命は同年4月に認められた。中国側は訪米中の各代表団に即刻帰国を指示、83年の米国との文化スポーツ交流をすべて中止する決定をした。
この事件を、中国国内の保守派は、西側思想の影響だと批判、83年秋の「精神汚染一掃運動」の口実にもした。テニス愛好家で、胡娜氏を練習相手にしていた積極改革派の万里(ばんり)副首相への責任論も出たという。
しかし、翌84年初め、トウ小平氏は改革・開放への影響を懸念、反精神汚染運動を中止させ、同年のロサンゼルス五輪にも中国は夏季五輪では初めて参加、米中関係も修復に向かった。
胡娜氏はその後、米国でプロ選手になったが、世界ランキングは50位が最高で引退した。現在は台湾でテニス学校を経営、解説者としても活躍中だ。2004年に22年ぶりに中国に帰省した。(伊藤正、矢板明夫)


