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【トウ小平秘録】(140)第6部「先富論」の遺産 集団指導の核心
■「主席には助手が必要だ」
トウ小平(しょうへい)氏は、流血の惨事となった天安門事件(1989年6月)を後悔する言葉は残していないが、教訓は今日に続く「発展と安定」のレールを敷くことに生かされた。「政治は強硬、経済は開放」という92年10月の第14回党大会の「社会主義市場経済」路線がそれである。
88歳のトウ氏にとって14回党大会は最後の豪腕を振るう場になった。前回書いた楊尚昆(ようしょうこん)、楊白冰(ようはくひょう)兄弟の軍からの排除もその一つだった。自ら「(毛沢東、自分に次ぐ)三代目の集団指導の核心」にした江沢民(こうたくみん)総書記(肩書は当時、以下同)に権力を集中、改革・開放を推進させるためだった。
胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)両総書記には与えなかった中央軍事委員会主席という最大の軍権を、トウ小平氏が江氏にあっさり譲ったのもその表れだった。トウ氏は趙氏にもいずれ軍権を譲ると約束していたが、その実行には天安門事件の経験が必要だった。
80年代の中国政治の支配者は、トウ氏をはじめとする長老たちだった。彼らの多くは長征に参加、ほぼ例外なく抗日戦争や国民党との内戦を戦った軍人上がりであり、血を流して新中国をつくったのは自分たちだとの自負心は強烈だった。
長老グループは事あるごとに改革・開放にたちはだかったが、それをなだめ、妥協しながら改革・開放を進めたのが、トウ小平氏だった。トウ氏が軍権を握り、最高指導者の地位を保持し続けた理由であり、時代が彼を必要としたともいえる。
トウ小平氏は早くから長老政治の弊害を除去しようと考え、87年の13回党大会で一部実行に移したが、天安門事件では長老の力に頼った。戒厳令に対する軍内の抵抗を抑えるために、自らタブーを破ったのだ。
事件後の軍の安定に、トウ小平氏は楊尚昆兄弟の力を借りたが、注目すべきは、89年11月に江沢民氏が軍事委主席に就任した際、楊尚昆氏のほかに、トウ氏の長年の部下だった劉華清(りゅうかせい)将軍を副主席に起用したことだ。劉氏は当時72歳の中央顧問委員で、第一線から引退していた。劉氏はそのときの驚きを「回顧録」(解放軍出版社)に表し、トウ氏の言葉を記している。
「主席(江沢民氏)には助手が必要だ。君は副主席、楊白冰は秘書長だ。いまは軍隊の安定が必要で、楊尚昆もいまは辞めない」
楊兄弟が排除された14期1中総会では、劉華清氏は軍事委第1副主席、さらに政治局常務委員に選ばれ、再び仰天する。もっと驚いたのは、もう一人の副主席に選ばれた78歳の張震(ちょうしん)将軍だ。張氏も「回顧録」(解放軍出版社)に「私のような無能な男がなぜ」と書く。
両氏の共通点は、楊兄弟と違って「野心」がなく、天安門事件に無関係だったことだ。両氏とも5年後に引退するまで、江沢民氏のサポート役に徹した。
楊兄弟の「失脚」後、軍内では楊兄弟系列の幹部が次々に更迭された。これと同時にトウ氏はもう一つの難題、長老政治も終わらせる。中央顧問委員会の廃止だ。
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■「陰の党中央」はいらない
中国共産党指導部の若返りと引退幹部の処遇のため1982年に設置された中央顧問委員会は、トウ小平(しょうへい)、陳雲(ちんうん)という大御所が主任を務めた結果、「陰の党中央」と呼ばれるほどの権力を握った。
トウ小平氏は天安門事件2カ月後の89年8月、陳雲主任(肩書は当時、以下同)に、14回党大会で顧問委を廃止する意向を伝えた。
トウ氏は、長老らに「(顧問委が存続すると)若い世代が萎縮(いしゅく)し、思想の解放ができない」と説明。陳雲氏は顧問組などの過渡的措置を提案したりしたが、顧問委員は廃止に抵抗、党大会直前までもめた。
これに決着をつけたのはトウ小平氏だった。トウ氏は「必ず廃止し、存続はできない」との指示を出し、大会直前の顧問委会議では圧倒的多数で廃止が決まった(香港誌「争鳴」92年11月号)。
党大会の指導部人事では、トップ7人で構成する政治局常務委員会から、保守派の宋平(そうへい)、姚依林(よういりん)の両現職組が引退、朱鎔基(しゅようき)、劉華清(りゅうかせい)、胡錦濤(こきんとう)の3氏が新たに選出された。このうち注目されたのは、49歳の胡錦濤チベット自治区書記の中央委員からの抜擢(ばってき)だった。
文思詠(ぶんしえい)著「胡錦濤伝」(明鏡出版社)は、胡氏の3階級特進と楊尚昆(ようしょうこん)兄弟の軍からの排除を党大会人事の「二大驚異」とし、トウ小平氏の決定だったと述べている。
それによると、トウ氏の若手起用の指示で、新指導部入り候補として数人が挙がった。大会前、トウ氏は江沢民(こうたくみん)総書記に「胡錦濤はどうか」と持ちかけ、江氏が「水利相にしたい」と答えると、「低すぎる!」と大笑し、胡氏を評価する理由を幾つか挙げた。
真っ先に挙げたのが「品格があり、胡耀邦(こようほう)(元総書記)に対し、情も義もあった」だ。恩師の胡耀邦氏が87年に解任されたとき、胡錦濤氏は「不公平だ」と述べ、批判に同調しなかったとされる。
胡錦濤氏の抜擢は、胡耀邦事件とその死が引き金になった天安門事件に対する、トウ氏の微妙な心理を反映していた。
第14回党大会は、3年前の天安門事件の後遺症を克服し、江沢民指導部による一党独裁下で市場経済を全面推進するスタートになった。中国人は、政治から離れ、金もうけに邁進(まいしん)していく。
それが今日どのような結果を生みつつあるのか。次回から、トウ氏ゆかりの地などの現状を報告する。(中国総局長 伊藤正)
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【用語解説】長征
1934年10月から1年余をかけ、紅軍(人民解放軍の前身)が江西省から陝西省までの1万2500キロを大移動したこと。江西省の共産党根拠地「中華ソビエト共和国」は、蒋介石軍の包囲攻撃で壊滅状態になり、約10万人が包囲を突破して長征を開始。敵の追撃や大雪山越えなど厳しい行軍で、陝西省北部到達時には兵力は1万以下に。途中、35年1月の貴州省遵義で毛沢東が指導権を握った。長征経験者は、長征幹部と呼ばれ、共産党の中心になった。

