ニュース: 国際 RSS feed
【トウ小平秘録】(138)第6部「先富論」 天安門事件の謀略説
■反革命暴乱をでっちあげろ
1989年4月の胡耀邦(こようほう)元総書記死去で始まった学生デモに対し、トウ小平(しょうへい)氏は強硬姿勢を貫き、平和解決のチャンスをつぶす。まるで悪魔の手に導かれたように、血の弾圧へ突き進んでいった。
4月22日の胡耀邦氏の追悼大会後、学生デモが沈静化しつつあったとき、トウ小平氏は李鵬(りほう)首相(肩書は当時、以下同)らに、デモを「動乱」とする強硬談話をし、それに基づく26日付の人民日報社説で学生や市民を刺激、デモを再燃、拡大させた。
趙紫陽(ちょうしよう)総書記が訪朝から帰国し、対話路線を打ち出してからの5月初旬には、大半の学生は学内に戻ったが、トウ氏は、趙氏による人民日報社説の撤回、ないしトーンダウンの要求を拒否、学生の絶食行動を招いて対話路線は破綻(はたん)した。
5月15日のゴルバチョフ・ソ連書記長の訪中を機にトウ氏と趙氏の関係が悪化した後は、武力解決へ一気に傾く。同月17日、戒厳令が事実上決まり、趙氏は辞任を申し出た。「武力行使は不可避になったから」と後に語っている。
5月20日に戒厳令を布告したものの、すぐには実行しなかった。戒厳部隊の市内進駐が市民の抵抗を受けたことも一因だった。それ以上に実力行使前に2つの準備が必要だった。
1つは趙氏辞任に伴う指導体制の再構築だった。長老会議を経て、江沢民(こうたくみん)指導部が5月30日までに固まる。もう1つの準備は武力行使の思想・宣伝面などの政治工作で、こちらは簡単ではなかった。
「人民の軍」が人民に銃を向ける。軍創設以来前例のない命令には、将兵の間に疑問と動揺が起こり、出動命令への抵抗事件が続発していた。全国の人民の反発も必至だった。国際社会は成り行きを注視、北京には1000人近い外国人記者もいた。
中国研究の権威、矢吹晋横浜市立大名誉教授の「天安門事件の真相」(蒼蒼社)や事件当時の西日本新聞北京支局長、坂田完治氏の「トウ小平の世界」(九州大学出版会)は、武力行使の正当化に謀略があったとの説を採る。
それは6月2日未明から3日午後にかけての不可解な部隊側の動きによる。丸腰部隊が市中進軍を試みて阻止され、軍用車両からやすやす武器が奪われ、変装した兵士がつるし上げられるなどは、「反革命暴乱事件」として武力鎮圧を正当化する陽動作戦だったというわけだ。
本企画の第1部「天安門事件」では書かなかったが、謀略説を裏付ける未確認情報がある。情報源は、保守派長老の王震(おうしん)国家副主席に近い筋で、天安門事件の直後、王氏から直接聞いたという。
それによると、王氏は「趙紫陽一派など、赤子の手をひねるようなものだった。こっちは百戦錬磨の軍人ぞろいだ」と話し、ある長老の策略を絶賛したという。
その長老とは李先念(りせんねん)政治協商会議主席だ。作戦の実行をめぐって長老らが検討したとき、李氏は重要な提案をした。
「反革命暴乱をでっちあげればいい」
■武力行使は正当化された
学生、市民の街頭行動が「動乱」から「反革命暴乱事件」に転じたのは1989年6月3日午後6時半に発表された北京市人民政府と戒厳部隊指揮部連名の「通告」だった。
通告は、「ごく少数の者がデマの捏造(ねつぞう)や扇動で混乱をつくり、バリケードを築かせた。これに乗じて暴徒、悪党、ごろつき、破壊分子らが兵士を殴打、侮辱、拘束し、一部の兵士を負傷させ、軍用車の破壊、軍用物資や武器を略奪した」などとし、共産党と社会主義を倒す「反革命暴乱事件が発生」とした。
この発表に先立ち、各部隊には「反革命暴乱事件の発生」が伝達され、作戦実行が指令された。通告が挙げる市民側の「破壊行為」は2日から3日夕にかけての軍側の陽動作戦に誘発されたものが多く、発表には誇張、歪曲(わいきょく)も少なくない。
いずれにせよ、この「謀略」によって武力行使は正当化され、「人民の軍」の武力行使への心理的抵抗感を大幅に軽減した。相手は「人民ではなく社会主義祖国の敵」なのだ。
李先念(りせんねん)氏の「謀略」説は確認されていないが、同氏の5月27日の政治協商会議での発言は6月3日の「通告」に通じる表現がある。「ごく少数の者が裏で画策し、デマをつくり、挑発扇動をして事態を拡大、動乱を通じて共産党の指導と社会主義打倒の政治目的を達成しようとしている」
李氏にすれば、それを阻止するための謀略はむしろ当然だった。中国筋によれば、王震(おうしん)氏を含め、長老たちは、天安門事件を「戦争」ととらえていたのだから。
李先念氏は、改革・開放に批判的で、趙紫陽(ちょうしよう)氏に敵意に近い感情を持っていた。趙氏は2004年3月20日、訪問してきた姚監復(ようかんふく)元国務院農業発展研究センター研究員から、李氏について問われ、こう答えている。
「彼は改革・開放には一貫して強い不満を持ち、胡耀邦(こようほう)や私をいつもののしっていた。彼は文革中も失脚せず、責任を負っていた経済活動の成果が否定されるのを警戒、政治的に改革に反対した」(宗鳳鳴(そうほうめい)著「趙紫陽軟禁中的談話」)
李先念氏は1992年、王震氏は93年にそれぞれ死去し、天安門事件にかかわった長老たちは2007年の薄一波(はくいっぱ)氏を最後にすべて世を去った。
天安門事件の内情については完全に封印され、李鵬(りほう)元首相ら健在者も証言していない。事件には、まだ多くの闇がある。(中国総局長 伊藤正)


