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【トウ小平秘録】(137)第6部「先富論」の遺産 元外科主任の上申書

2008.2.2 03:33
このニュースのトピックストウ小平秘録
北京市北西部にある人民解放軍総医院(301病院)。中国の指導者がよく利用する病院の一つで、病院名は江沢民前国家主席の揮毫(きごう)=矢板明夫撮影北京市北西部にある人民解放軍総医院(301病院)。中国の指導者がよく利用する病院の一つで、病院名は江沢民前国家主席の揮毫(きごう)=矢板明夫撮影

 ■天安門事件を再評価せよ

 2003年春、発足したばかりの胡錦濤(こきんとう)政権を襲った新型肺炎(SARS)危機。感染拡大の一因になった衛生当局の隠蔽(いんぺい)工作を暴露した軍301病院の元外科主任、蒋彦永(しょうげんえい)氏(76)は翌04年2月、再び脚光を浴びる。中国指導部に(第二次)天安門事件の再評価を求める上申書を出したのだ。

 301病院は、軍の関連施設が集中する長安街西の復興路沿いにあり、1997年に死去したトウ小平(しょうへい)氏の入院先でもあった。天安門事件前夜の89年6月3日夜、この付近で戒厳部隊が発砲を開始、多数の死傷者を出した。

 蒋医師はその夜、銃撃による負傷者の救命治療に当たった経験などを詳述し、大多数の人民が支持していた学生の愛国行動を武力鎮圧したことを厳しく批判、一刻も早く事件を見直すべきだと主張した。

 その中で注目されたのは、当時の国家主席兼中央軍事委常務副主席で、戒厳部隊の指揮者だった楊尚昆(ようしょうこん)氏が98年、天安門事件の誤りを認めたとされた点だった。楊尚昆氏は蒋氏にこう話したという。

 「六四事件(天安門事件)は、わが党が歴史上犯した最も重大な誤りだった。いまとなっては、私にはそれを正す力はないが、将来必ず正されると思う」

 蒋彦永氏は上申書で、この楊氏の意見は、実際にはその他の多くの老同志の共通認識だとし、陳雲(ちんうん)中央顧問委主任(肩書は当時、以下同)も武力行使に反対だったとの見方を示している。

 その根拠は、天安門事件後に行われた中央顧問委員会の党員再登記の際、民主化運動を支持した于光遠(うこうえん)元中国社会科学院副院長、李鋭(りえい)元中央組織部副部長ら4委員を処分する動きがあり、それを陳雲氏が制止する意見を出したことだ。

 蒋氏によると、陳雲氏は4委員の再登記を拒否せよとの意見に対し、「そんなことはしてはならない。過去に多くの(苦い)経験がある」と伝え、4氏は処分を免れたとする。この件は「陳雲伝」(中央文献出版社)も触れている。

 それによると、陳雲氏は90年5月24日、薄一波(はくいっぱ)、宋任窮(そうじんきゅう)両顧問委副主任に「天安門事件は過去にない複雑な政治闘争だった。党内闘争は正しい方針で処理すべきだ」とし、こう話す。

 「第7回党大会(45年)では、李立三(りりつさん)同志ら過ちを犯した同志も中央委員に選ばれた。昨年、趙紫陽(ちょうしよう)同志の職務を解いたが、党籍は保留し、胡啓立(こけいりつ)同志は中央委員にとどまった。こうしたやり方は安定団結に有利だ」

 陳雲氏は天安門事件の前、戒厳令を支持し、事件直後には動乱制止をたたえたが、陳氏の性格や理念から武力行使を積極支持したとは思えない。95年に死去するまで、それを直接批判する言葉は残していないが。

 陳雲氏は、ライバルのトウ小平氏と距離を置き、北京には年の半分もいなかった。対照的にトウ氏と密着、天安門事件で重要な役割を果たした楊尚昆氏が武力行使を批判したのはなぜなのか。

 ■武力行使は本意ではない

 本企画の第1部「天安門事件」では、1989年4月26日に学生デモを「反革命動乱」とした人民日報社説の後、再燃したデモの収拾策をめぐって李鵬(りほう)首相(肩書は当時、以下同)らの強硬論と趙紫陽(ちょうしよう)総書記らの対話論が対立、5月中旬にトウ小平(しょうへい)氏が強硬論を支持し、武力解決に向かった経緯を書いた。

 この過程で趙紫陽氏が最も頼りにした長老が楊尚昆(ようしょうこん)国家主席で、趙氏は楊氏を通じ、トウ氏との妥協を図った。5月15日のゴルバチョフ・ソ連書記長との会談で、趙氏が「トウ小平同志が最高決定者」との秘密決議を暴露した後、トウ氏と決裂、楊氏も趙氏から離れた。

 楊尚昆氏は戒厳令実行の責任者になったが、流血を極力回避しようとした。5月25日に、許家屯(きょかとん)新華社香港支社長が「流血は絶対だめですよ」と迫ったのに対し、「それはない、絶対にない」と答えている。

 6月3日、学生、市民の強制排除開始に当たっても、楊尚昆氏は「武器使用は万やむを得ない以外は避けよ。特に天安門広場では血を流してはならない」と全部隊に指示していた。

 楊尚昆氏はダンディーで知られ、大半の長老が中山服を着用したのに対し背広派で、ダンスも得意にした。88年に、呉儀(ごぎ)北京市副市長(現副首相)とのロマンス説が流れたこともあった。真偽不明だったが。

 楊氏が90年に、外国生まれの60代の中国女性に求愛した確かな秘話がある。女性の証言によれば、90年秋、楊尚昆家に誘われ2人で食事をしたとき、楊氏が「老後を一緒に暮らそう」とプロポーズした。

 「なぜ私のような年寄りを」と問う女性に、楊氏は「あなたのような優しい女性は中国にいなくなった」と言う。女性は「それは共産党のせいじゃないですか」と言うと、「その通りだ。中国がいやなら外国で暮らそう」と迫ったという。

 女性が「記者に公表しますよ」とはねつけ、求愛は実らずに終わったが、それが理由だったか分からない。しばらくして「楊尚昆が国外逃亡を計画」とのうわさが流れたからだ。楊家も盗聴されていたに違いない。

 この人間的なエピソードを知ったとき、楊尚昆氏のイメージが変わった。武力行使は彼の本意ではなかった、と確信した。それを裏付ける告白を蒋彦永(しょうげんえい)医師にした数カ月後、楊氏は91歳で死去した。

 最高指揮官の意に反し、なぜ大量流血の事態に至ったのか。次回で書く。(中国総局長 伊藤正)

                   ◇ 

【用語解説】秘密決議

 1987年11月の第13期党中央委員会第1回総会(1中総会)で、趙紫陽総書記が提案、採択された決議で、「トウ小平同志に重要問題では指示を受ける」という内容。1中総会に先立つ13回党大会で、トウ小平氏は中央委員会から引退(党中央軍事委主任には留任)したが、この決議で最高指導者の権力を維持した。ヒラ党員が権力を掌握するのは組織原則に反し、決議は秘密にされた。趙氏がそれをゴルバチョフ氏に暴露、トウ小平批判が巻き起こるきっかけになった。

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北京市北西部にある人民解放軍総医院(301病院)。中国の指導者がよく利用する病院の一つで、病院名は江沢民前国家主席の揮毫(きごう)=矢板明夫撮影
1988年8月26日、北京の人民大会堂で、訪中した竹下登首相(当時、右)と握手する楊尚昆氏。背広姿で知られた

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