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【トウ小平秘録】(133)第5部 最高実力者 トップ3の会談
■ともに半分引退に終わった
1980年代の中国政治は、トウ小平(しょうへい)中央軍事委主席兼中央顧問委主任(肩書は当時、以下同)、陳雲(ちんうん)党中央規律検査委第1書記の両巨頭以下、8大長老が動かした。両氏に次ぐ実力者が李先念(りせんねん)国家主席だった。
86年10月30日、このトップ3が会談した。トウ、陳両氏の公式日誌「年譜」はいずれも会談の事実だけで、場所すら記載していないが、党中央文献研究室編の「陳雲伝」下巻(2005年)はこう記している。
「3人は相談の結果、第13回党大会(87年10月)で一緒に引退し、いかなる職務も担わないことを決めた」
トウ小平氏は80年以来、指導部の若返りを図り、自らも「80歳前の引退」を口にしていたが、党大会時には83歳になる。それを機に完全引退し、同じく82歳、78歳になる陳、李両氏にも同調を求めたに違いなかった。
トウ氏は85年に胡耀邦(こようほう)総書記に引退の意思を伝え、胡氏にも総書記をやめ、顧問委主任になるよう提案していた。その時点でトウ氏は、次期総書記に趙紫陽(ちょうしよう)首相を想定し、重要課題を与える。政治改革だ。
86年6月10日、トウ小平氏は経済状況の報告にきた趙紫陽氏ら政府指導者にこう話した。
「80年に政治体制改革を提起したが具体化できなかった。今や日程に上げねばならない。そうしないと官僚主義などがはびこり、経済改革を妨げ、経済発展の足を引っ張るのは必定だ」
同月28日には法律・紀律(規律)担当の喬石(きょうせき)政治局員から党の風紀の乱れについて報告を聞き、話す。
「党と政府の問題であり、政治体制の問題だ。全局的には法制度の強化が必要だ。政治改革なくして経済改革はできない。改革全体の成否は政治改革にかかっている」(以上「トウ小平年譜」)。
84年以来、党官僚のブローカー行為が横行、トウ氏は86年1月、高級幹部やその子女の不正、犯罪を厳罰にするよう指示した。しかし党官僚の犯罪は党の体制に起因しており、党と行政の分離などの改革が急務になっていた。それを放置すれば、国民の党と改革・開放への不信を高めかねない。
トウ氏は85年半ば、胡耀邦氏や趙紫陽氏に政治改革を13回党大会で断行する方針を話していた。その責任を負った趙氏は、政治秘書の鮑●(ほうとう)氏(後に党中央政治体制改革研究室主任)らブレーンたちに研究させる。
その結果、86年に入ると、中国の思想・理論界は活気を取り戻し、三権分立制など西側の民主主義制度や自由・人権思想などを美化する論文が次々に発表された。
86年9月、党中央委総会(12期6中総会)が開かれ、精神文明建設決議を採択した。胡耀邦氏の責任で起草された決議案には「反ブルジョア自由化」の表現がなく、トウ氏の指示で加えられた。トウ氏は胡氏の「自由化」傾向に改めて不信を持つ。
6中総会の翌月、トウ氏が陳雲、李先念両氏から「完全引退」の同意を得たのは、政治改革への強い決意の表れだった。他の長老も3人に追随せざるを得ず、指導者終身制は廃止され、趙紫陽「次期」体制への支援になるはずだった。そのシナリオは学生デモで崩れる。
86年12月5日、安徽省合肥の中国科学技術大学の学生約2500人が、民主化を求めデモ行進したのが始まりだった。同大は反体制物理学者の方励之(ほうれいし)氏が副学長を務め、民主的空気が強かった。
合肥では同9日にもう一度デモがあっただけだったが、この後12月中旬から上海、深セン、広州、蘇州、南京など各地に波及、北京では年末に動きが始まり、87年の元旦にデモが行われた。
学生デモは86年の政治改革論議の中で、民主化と自由化ムードが高まった影響ともいえた。学生らの民主化要求は、精神文明決議と鋭く対立していた。
86年末、トウ小平氏は胡耀邦、趙紫陽ら指導者を集め、ブルジョア自由化への軟弱な対応を厳しく批判、翌1月、胡耀邦総書記が辞任、趙紫陽氏が総書記代行になる。これについては本連載第1部「天安門事件」で詳しく書いた。
86年末の学生デモは、趙紫陽体制への移行を早めただけともいえるが、政治改革への影響は絶大だった。87年10月の第13回党大会では、党と行政の分離など多くの改革が打ち出された。
しかし、4つの基本原則堅持が改革・開放とともに「基本点」にうたわれ、当初検討されていた新聞法の制定、司法の独立性強化などは後退、党の指導がむしろ強まった。
トウ小平、陳雲、李先念の「完全引退」盟約は、中央委員会からは引退したものの、トウ氏は軍事委主席を保持、陳氏は顧問委主任、李氏は政治協商会議主席に横滑りした「半退」(半分引退)に終わった。他の長老たちの多くも同様だった。何よりも大きな影響は、胡耀邦氏の辞任に対する学生・知識人の反発だった。それは保守派に対してだけでなく趙紫陽氏への反感をも生む。胡氏が89年4月に急死したとき、それが爆発した。
≪第5部では、改革・開放への移行後の動きとともに天安門事件の底流を中心に追った。台湾問題などこれまで省略してきたテーマは、来年掲載する第6部で取り上げる≫(伊藤正)
=第5部おわり
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【用語解説】精神文明建設決議
「社会主義精神文明建設の指導方針に関する党中央決議」の略。86年9月の12期6中総会で採択した。改革・開放路線で経済建設が進むにつれ、思想、文化などで強まった西側の影響を排除、社会主義の基本原則にたち、物質文明にふさわしい精神文明を構築しようという決議。社会風紀の乱れを「ブルジョア自由化」の影響とする保守派の主張に沿って起草されたが、実効性はなくスローガン倒れに終わった。
●=杉の木へんを丹に