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【トウ小平秘録】(131)第5部 最高実力者 1984年の挑戦
■今は対外開放を進めよ
1978年以来、中国は偶数年が「放」(緩和)、奇数年は「収」(引き締め)を繰り返した。保革のバランスをとるトウ小平(しょうへい)氏の政治術のためだが、引き締めの後はさらに改革・開放が前進するのが常だった。国民の経済発展への圧倒的な欲求があったからだ。
精神汚染一掃という保守派主導の反自由化運動が短期間でしぼんだ翌年の84年、トウ小平氏は一転して改革・開放の大躍進に打って出た。その口火を切ったのが年明けの南方視察だった。
トウ氏は1月22日、王震(おうしん)、楊尚昆(ようしょうこん)両政治局員(肩書は当時、以下同)を伴い、専用列車で北京を出発、24日に広東省広州駅に着く。トウ氏はそこで出迎えた省指導者に「私が提唱した経済特区の成否を確かめにきた」と旅の目的を告げた。
それから2月10日までの間、トウ氏は同省の深セン、珠海、福建省廈門(アモイ)の3経済特区を視察した。最初の深センでその急速な発展ぶりを目にする。79年の実験開始以来の5年間に、工業生産額も財政収入も10倍になっていた。トウ氏はこう題辞を書く。
「深センの発展と経験は、経済特区建設というわれわれの政策が正しかったことを証明した」
珠海、廈門でも港や空港の建設が進みつつあった。廈門は、福建省党書記の項南(こうなん)氏が胡耀邦(こようほう)総書記直系だったこともあって、保守派の妨害に遭い、特区は港を中心にした2・5平方キロに制限されていた。
項南氏が全島131平方キロに拡大したいと訴えると、トウ氏は即座に同意し、こう話した。
「廈門特区は自由港の政策を実行してよい。(建設中の空港は)廈門国際空港の名称にしたまえ」(「トウ小平年譜」)
この南方視察は92年の南方視察と同様、重要な政治的意味があった。陳雲(ちんうん)党中央紀律検査委員会第一書記ら特区建設に反対してきた保守派への反撃だった。
陳雲氏らは外資を誘致、加工貿易を興す特区構想には「資本主義化」として当初から反対、「限定された地域での実験」とのトウ氏の提案に渋々同意したが、反対姿勢は堅持していた。
81年には胡喬木(こきょうぼく)氏の主導で中央書記処が「旧中国租界の由来」と題した文章を各省に配布、「租界の多くは知らぬ間に外国にだまされ、『国の中の国』となった」と特区を暗に批判。同年末の各省市指導者会議では陳雲氏が「特区の副作用も考えなければならない。特区の数を増やしてはいけない」と強調した。
特区見直し論が強まったのは、80年暮れの中央工作会議で、陳雲氏の意見にトウ小平氏が同調、全面的調整策が決まった影響もあった。トウ氏は後に「80年の中央工作会議で譲歩しすぎた」と述べたという(阮銘(げんめい)著「トウ小平帝国」)。
トウ小平氏が右に揺れ左に揺れている間も、国民は富を求めて懸命に働き、経済を押し上げていく。特に経済改革の進んだ農村では83年、穀物が前年比約10%、綿花が約30%と大幅に伸びるなど、農業生産は史上最高を記録した。
しかし経済の飛躍には、工業の発展が不可欠であり、西側からの資金と技術の導入と同時に、特区のように加工貿易で外貨を稼ぐ必要があった。ところが、西側の文化を敵視する精神汚染一掃運動が起こり、トウ氏の開放政策に内外の疑問が広がった。
そうした懸念を払拭(ふっしょく)し、改革・開放を前進させることが特区視察の目的だった。視察には保守派長老の王震氏が同行したが、王氏は特区の発展に感動、特区宣伝の先兵になり、保守陣営に打撃を与えた。
84年2月中旬、トウ氏は北京に戻ると、胡耀邦総書記、趙紫陽(ちょうしょう)首相ら党・政府指導者に特区の状況を話し、対外開放加速を指示。それに基づき中央書記処と国務院は4月、上海、天津、大連など沿海部の14都市を特区に準じた対外経済開放都市に指定し、沿海地区の発展を促した。
トウ氏はその間、精神汚染一掃運動の中心になった胡喬木、●力群(とうりきぐん)両氏を呼び、「反ブルジョア自由化は長期の闘争であり、今は対外開放を進め、資金と技術を吸収せねばならない」と話した。
この年は3月に中曽根康弘首相、4月にレーガン米大統領が訪中、年末にはサッチャー英首相との間で香港返還で合意するなど、西側との協力関係が加速した。
また国内では10月の中央委総会(12期3中総会)で、遅れていた都市部の経済改革として「計画的商品経済」への移行を決定、市場経済化へ大きく踏み出す。内外政策とも改革・開放が進み、全国に活気があふれた。
84年10月1日の建国35周年記念日(国慶節)は史上最大の祝典になった。トウ氏は天安門楼上から初めて演説、オープンカーで軍のパレードを観閲し、天安門広場と長安街沿道を埋めた群衆の歓呼に応えた。
「小平、★好(ニーハオ)(ごきげんよう)」との横断幕が掲げられた。一部学生が自主的に出したものだ。学生の間でも「トウ小平人気」は絶大だった。
トウ氏が学生たちの「敵」になるのは、そのわずか2年後だった。(伊藤正、矢板明夫)
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【用語解説】計画的商品経済
計画経済と市場経済を両立させた中国独特の経済モデル。社会主義制度の経済原則である計画経済の枠内で商品経済を容認するもので、計画性を主にし、市場調節を従としたため、こう呼ばれた。商品経済を鳥にたとえ、計画経済という鳥かごの中で羽ばたかせるとの陳雲氏の「鳥かご経済論」に近いが、その後、市場が急速に拡大、計画経済が後退し、1992年の第14回党大会で「社会主義市場経済」と定義された。
●=登におおざと
★=は「休」の「木」の部分が「尓」で横棒「一」がはねている