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【トウ小平秘録】(127)第5部 最高実力者 レーガン登場

2007.12.8 03:38
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 ■「対米工作は私がやる」

 積極改革派の胡耀邦(こようほう)氏が党主席に就任した1981年6月前後から、トウ小平(とうしょうへい)氏の「保守化」によって、保守派の攻勢が強まった。そこには、国際的要因が大きく絡んでいた。ポーランド情勢と米中関係だ。

 80年夏にさかのぼる。トウ小平氏は8月に開かれた政治局拡大会議で、党と行政の分離など政治制度の改革構想を打ち出した。政治改革なくして経済改革はできないという考えによる。

 「トウ小平講話は知識人の普遍的歓迎を受け、『政治改革の春が来た』と言う人もいた。翌月の全国人民代表大会第3回会議も開放ムードの中で開かれ、『民主の大会、改革の大会』と呼ばれた」(楊継縄(ようけいじょう)著「中国改革年代的政治闘争」)

 中国社会科学院の厳家其(げんかき)氏ら気鋭の学者たちが相次いで政治改革の必要性を説く論文を発表、有力メディアもキャンペーンを張った。それに対し、保守派の胡喬木(こきょうぼく)社会科学院院長(肩書は当時、以下同)が9月下旬、反撃の口火を切る。

 同年7月、自主管理労組「連帯」結成でピークに達したポーランド危機が材料になった。胡喬木氏は「中国でも同様の危機が爆発する可能性がある」とし、56年のポーランド、ハンガリー危機の際、毛沢東が取った対策(反右派闘争)と同様の措置が必要と主張した。

 胡喬木氏はそれを手紙にして胡耀邦総書記に送ったが、返事がなかった。胡耀邦氏もトウ小平氏も、ポーランド危機は、党の経済政策の失敗とソ連への服従に対する国民の反発であり、「連帯」運動は正義の闘争と評価していた。

 その上で、両氏は(1)中国は独立自主を守り、覇権主義(ソ連)に屈従していない(2)改革路線は国民の支持を得ている−と中国では危機は起こらないと分析、「さらに改革を徹底すべきだ」との見解で一致していた。

 状況が一変したのは10月3日、中央書記処が胡喬木氏の意見書を各機関、団体などに通知した後だ。同9日には中央宣伝部が意見書の討論をメディアに通達、その中で王任重(おうにんじゅう)部長はこう述べた。

 「われわれにもポーランドと類似の問題があり、同じ結果を招く可能性がある。小平同志が話した政治制度改革は、以後宣伝してはならない」

 中央宣伝部は続いて、陳雲(ちんうん)副主席の意見を伝達した。「宣伝方面と経済方面の両方に注意しなければ、中国にもポーランドのような事件が起こる」(阮銘(げんめい)著「トウ小平帝国」による)

 既に書いたように、80年12月の中央工作会議でトウ小平氏は陳雲氏の意見に従い、全面的な引き締め政策に転換、政治改革構想は消滅した。トウ氏がその後しばらく守勢に立った要因には、レーガン米政権の登場もあった。

 80年の米大統領選では、再選を目指した民主党のカーター大統領と、共和党の反共主義者レーガン候補の争いになった。レーガン氏は、予備選段階でカーター政権の対中国交樹立を攻撃、台湾との関係回復を繰り返し主張した。

 レーガン氏の反中親台発言は、トウ小平氏をいらだたせた。トウ氏は8月に釈明のため訪中した旧知のブッシュ共和党副大統領候補に、もしレーガン氏の台湾政策を実行すれば、関係は後退すると批判した。それは対米国交を決断したトウ氏の地位を脅かしかねない。

 トウ氏の対外開放政策の柱は対米関係であり、79年1月の国交樹立直後に自ら訪米、米中間の協力・交流は急速に発展しつつあった。それは保守派の警戒心を呼ぶ。

 先の胡喬木意見書は、中国での危機発生の可能性の一つに「外国の思想、経済、政治、文化の影響」を挙げた。その主要な発信源は「米国」だった。胡喬木氏はその後、米国留学の禁止や大使館を国交前の連絡事務所に戻せとまで主張する(「トウ小平帝国」)。

 中国には現実主義の共和党びいきの伝統があるが、このときはカーター再選を望んだ。しかし、11月の選挙で勝ったのはレーガン氏だった。その失望は、当時の人民日報の冷淡な報道に表れた。

 ブッシュ氏らの説得が功を奏し、レーガン氏は「台湾承認」は引っ込めたが、台湾防衛強化のため、最新鋭機を含む台湾向け武器供与方針を打ち出す。中国側にすれば、民族の悲願である「祖国統一」を妨害する内政干渉だった。

 しかし正常化当時、台湾向け武器輸出問題は、継続論の米国と中止論の中国の対立が解けず、棚上げになっていた。トウ氏が中越戦争を前に、正常化を急いだ結果だった(邦訳、ジェームズ・マン著「米中奔流」)。

 この問題は82年8月に「質量とも前年を上回らない規模で継続」で妥結するまで難交渉が続いた。トウ小平氏は内政面では保守派と手を組みながら、対米関係への影響を極力抑止することに成功した。

 当時、外相としてこの交渉にあたった黄華(こうか)氏は回想録「親歴与見聞」で、82年冬、ある人が対米工作の「路線上の誤り」を党中央に報告したと明かしている。「小平同志に手紙で伝えると、小平同志は手紙に指示を書いた。『対米工作は私が主宰している。問題があれば、責任は私が負う』と」

 この後ほどなく、レーガン政権は「豊かで強大な中国」建設へ全面協力に転じる。対ソ戦略の一環だったが、トウ氏は82年にはソ連との関係改善を視野に入れだしていた。(伊藤正)

                   ◇

【用語解説】政治制度の改革

 1980年8月18日、トウ小平氏が打ち出した構想で、正式には「党と国家の指導制度の改革」と呼ばれた。(1)過度の集中を正し、社会主義民主主義制度と党の民主集中制を実行する(2)兼職、副職を減らし、効率を高め官僚主義や形式主義をなくす(3)党と行政の分離に着手する(4)世代交代の問題を解決し、より若い同志に第一線を歩ませ、老同志は参謀になる−など。9月に全国に通達、改革の具体案が幾つか出たが、実行には至らなかった。

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