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【トウ小平秘録】(126)第5部 最高実力者 胡耀邦への宣戦布告
■ブレーンをぶっつぶす
「ここに胡耀邦(こようほう)のブレーン集団があると聞いた。わしはそれをぶっつぶすために来た!」
1982年6月、北京市西郊外にある中央党学校の職員集会。新しく校長に就任した王震(おうしん)政治局員(肩書は当時、以下同)は、手にした杖(つえ)で「ドン、ドン」と床を打ちながら声を張り上げた。
王氏の就任演説は、胡耀邦主席への宣戦布告に等しかった。党学校には、胡氏を支える優れた理論家たちがおり、改革理論の発信基地になっていたからだ。王氏は陳雲(ちんうん)副主席率いる保守陣営が胡氏の「頭脳」を奪うべく送り込んだ「刺客」にほかならなかった。
中国共産党直属の中央党学校は幹部の研修、養成機関として27年に開設、毛沢東、劉少奇(りゅうしょうき)らが校長を歴任した。胡耀邦氏は77年から約5年間、副校長(校長は華国鋒(かこくほう)主席)を務め、党学校の実質的トップとして改革の采配を振るった。
胡氏は副校長就任後、同校理論研究室の呉江(ごこう)、孫長江(そんちょうこう)、阮銘(げんめい)氏ら理論グループに指示し、改革理論を研究、内部に発信する目的で、「理論動態」という内部雑誌を発行させた。
同誌は、毛沢東無謬(むびゅう)論を打破する「真理の検証」キャンペーン(78年5月開始)の口火を切るなど、華国鋒主席ら「すべて派」を批判、78年末の3中総会で文革路線から近代化路線への歴史的転換に、理論面で最大の貢献をした。
党学校グループは、改革派理論の中枢として活躍、中央の重要会議のコミュニケや各種決議、トウ小平(しょうへい)氏の演説原稿の起草などにも参画した。しかし79年後半になると、胡喬木(こきょうぼく)中国社会科学院院長や●力群(とうりきぐん)中央書記処研究室主任ら保守派理論家と対立していく。
トウ小平氏は、3中総会後は改革・開放を進める一方、政治面では陳雲氏と手を組み、陳氏に近い胡喬木、●力群両氏を重用するようになった。
81年6月の6中総会で、華国鋒氏は事実上失脚、党学校の校長も辞職した。新主席になった胡耀邦氏は党務に専念するとして校長兼任を辞退、改革派の福建省第1書記、項南(こうなん)氏を後任に推した。
しかし、この人事は陳雲グループの猛反対でつぶれる。中央書記処会議で紛糾を重ねた後、陳雲グループが意外な人物を提案してきた。保守派長老の王震氏だった。
貧農出身で13歳で人力車夫となった王震氏は「ひげ将軍」と呼ばれ、新疆地区解放では粗暴な少数民族弾圧が問題になった。学問とは無縁で、適任とは言い難かったが、胡耀邦氏もトウ小平氏も受け入れた。
王氏は胡氏より7歳年上、党歴も長く、胡氏の郷里(湖南省瀏陽県)の先輩だった上、トウ小平氏の信頼も得ていた。王氏はトウ氏の3度目の復活(77年)にも貢献、家族間の関係も深かった。
陳雲氏は人事が承認されると王震氏を訪ね、激励している。
「党学校を黄埔(こうほ)軍校にしてほしい」
王震氏は期待に背かなかった。着任するや呉江氏、孫長江両氏を外部へ異動、阮銘氏の党籍を剥奪(はくだつ)すると発表した。人事異動は校長の権限内だが、政治的死を意味する党籍剥奪は重大処分で、阮氏は反発した。
「文革中の一時期、造反派に参加したこと、台湾の新聞が阮氏の文章を転載したこと」が処分理由だが、いずれも党内で解決済みの問題だった。阮氏の相談を受けた胡耀邦氏は、中央規律検査委員会に調査を指示する。
しかし「阮銘は党内にとどまるべき人物ではない」との陳雲氏の一言で調査は中止され、除名が決定。続いて馮文彬(ひょうぶんぴん)副校長ら胡耀邦氏に近い幹部も追われ、党学校の改革派は一掃された。「中央党学校事件」と後に呼ばれる。
阮銘氏はその後米国に亡命、米国と台湾を往復しながら、中国問題の研究家として執筆活動をしている。2007年1月、産経新聞の取材にこう話した。
「当時、陳雲グループはトウ小平の支持を取り付けており、胡耀邦の政治力ではどうにもならなかった。同じ改革派とはいえ、トウと胡の理念の違いは既にはっきりしていた」
「胡耀邦は理想主義者で、彼の目指す改革にはタブーがなかった。それに対し、トウ小平は経済分野の自由化を進めた半面、改革が少しでも一党独裁体制の維持に不利とみると、たちまち保守派に変身した」
阮銘氏と似た経験は、北京大学教授だった郭羅基(かくらき)氏にもある。
同氏は79年末から80年初めにかけ、人民日報などで、政治分野での思想解放を呼びかける論文を発表、トウ小平氏の不興を買った。トウ氏の指示で、教育省は郭氏に南京大学への転勤を命じた。郭氏は胡耀邦氏に相談し、不服申し立てを学校側に提出、赴任を拒否し、そのまま約2年が過ぎた。
82年初め、トウ小平氏は郭氏がペンネームで寄稿しているのを知り、「郭はまだ南京に行ってないのか」と激怒した。胡耀邦氏も異動に同意するしかなく、郭氏は南京大学に赴任した。
郭羅基氏は、後にこう回想している。
「郭羅基批判も、阮銘批判も、その後一連の(自由化)批判も、真のターゲットは胡耀邦本人だった」(呉江著「十年的路」、阮銘著「トウ小平帝国」、郭羅基著「我與耀邦」などによる)(伊藤正、矢板明夫)
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【用語解説】黄埔軍校
1924年、国民党と共産党が合同で、広州郊外の黄埔長洲で設立した軍官学校。規則正しい近代化軍人の育成を目的とした。初代学校長は蒋介石氏、政治部主任は周恩来氏だった。28年に南京に移り、中央陸軍学校と改称。同校の卒業生はその後、日中戦争、共産党と国民党の内戦などで活躍し、多くの将軍や政治家を輩出した。
●=登におおざと

