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【トウ小平秘録】(125)第5部 最高実力者 「苦恋問題」
■改革派の足並みが乱れた
今年11月、北京の美術館で、ある展示会が催された。1970年代末、北京の路上で青年美術家たちが始めた「星星画展」の回顧展で、当時の作品が多数出展された。
「星星」画会は当時の民主化運動と呼応、当局の妨害と闘いながら、メッセージ性の強い斬新な絵画や彫刻などを次々に生みだし、中国現代美術の突破と評された。胡耀邦(こようほう)氏が進めた思想解放に伴い、文化・芸術全般でわき起こった、党に奉仕する毛沢東の文芸路線を打破する動きであった。
文学界では、77年以降、文革体験の傷跡をえぐる「傷痕文学」が脚光を浴びた。やがてテーマは文革以前の悲劇や、現実社会の矛盾や問題へと広がり、事実に基づいた「報告文学」が読者を獲得していく。
香港「七十年代」誌の李怡(りい)編集長(肩書は当時、以下同)は「新写実主義文学」と名付けたが、高官の特権や官僚主義など共産党体制への批判を含む作品が時間とともに増え、当局の関心を呼び起こした。
79年9月、文芸誌「十月」に発表された白樺(はくか)氏の映画シナリオ「苦恋」は、発表当時はさほど注目されなかったが、80年1月に「太陽と人」の題名で映画化された後、政治問題になる。こんな粗筋だ。
国民党の迫害を受けた画家が逃亡先の米国で成功、新中国誕生に燃え、帰国するが、政治運動に翻弄(ほんろう)された末、のたれ死にする。その前に一人娘は一緒に米国亡命を誘うが、画家は「祖国を愛している」と残留した。娘は彼に言う。「パパは祖国を愛したけど、祖国はパパを愛してくれた?」−。
画家が最後の力をふりしぼって雪原に大きな「?」を書き、両手を太陽に向けながら死んでいくのが映画のラストシーンだ。太陽が毛沢東を象徴しているのは言うまでもない。
批判の口火を切ったのは4月17日付の軍機関紙「解放軍報」だった。毛沢東と新中国を侮辱し、4つの基本原則に反するブルジョア自由化の作品と1面トップで報道、保守派誌「時代的報告」がそれに続き、各紙に広がった。
白樺氏は軍総政治部所属の著名な作家で、軍機関紙が批判キャンペーンを展開した背景が香港など海外メディアの憶測を呼んだ。文化省は映画の公開を禁じたが、内部では賛否両論があった。
真相が分かるのはしばらくしてからだ。きっかけをつくったのはトウ小平(しょうへい)氏だった。トウ氏は3月27日、韋国清(いこくせい)主任ら軍総政治部指導者に会った際、「左」と同時に「右」の傾向も批判すべきだと強調した後、こう述べた。
「映画シナリオの『苦恋』は批判しなければいけない。これは(社会主義の)4つの基本原則堅持にかかわる原則問題だ」(「トウ小平文選」)
トウ氏はこの前日、保守派の●力群(とうりきぐん)中央書記処研究室主任と会い、「左」の影響除去を主張した人民日報社説(10日)に関し、「右」の問題にも4原則にも触れていないことを批判していた。ここで●力群氏が「苦恋」問題を出したとみられる。
●力群氏は回想録「十二個春秋」でそれには触れず、こう述べている。
「胡徳平(ことくへい)(胡耀邦氏の長男)はこの映画を大いに持ち上げ、胡耀邦自身も支持していた。それで問題になったのだ」
映画が議論を呼んだ直後の1月、白樺氏が胡耀邦氏に助力を求めた際、胡氏は「自分は見ていないが、秘書は反対、息子は賛成と反応が分かれた」とあいまいにした。その後も白氏は再三要請したが、胡氏は見ようとしなかったという(楊継縄著「中国改革年代的政治闘争」)。 80年12月の中央工作会議が転機だった、と胡耀邦氏のブレーンだった阮銘(げんめい)氏は「トウ小平帝国」に書く。そこでトウ小平氏は、保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)副主席の引き締め路線に同調、「右」批判に転じた結果、胡耀邦氏は守勢に回った、と。
81年6月の中央委員会総会(6中総会)で胡耀邦氏は党主席に就任した。「苦恋」批判は下火になりかかったが、7月17日、トウ小平氏が解放軍報などのキャンぺーンを支持したことから再燃した。
このキャンペーンに加わらなかった新聞があった。党機関紙人民日報だ。胡耀邦氏の親友で開明派の胡績偉(こせきい)総編集長は、トウ氏に対し「作品をブルジョア自由化と決めつけ、棍棒(こんぼう)を振るうような記事は載せられない」と答えたと回想している。
胡耀邦主席は8月3日の中央宣伝部主催の座談会で、「『苦恋』は人民と社会主義に不利で批判しなければならない。これは孤立した問題ではなく誤った傾向を代表している」と述べ、人民日報の取り組みを批判した。
人民日報が「文芸報」の「苦恋」批判記事を転載したのは、10月7日だった。12月には、白樺氏自身が自己批判し、「苦恋」問題は決着した。
この問題に関し、胡喬木(こきょうぼく)社会科学院院長ら保守派が暗躍したが、陳雲氏の発言は一切伝わっていない。トウ小平という代弁者がいたからだ。
「苦恋」問題で足並みが乱れた改革派への追撃が始まる。(伊藤正)
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【用語解説】傷痕文学
文革期の暗い体験や心の傷などを描いた作品の総称。1978年発表の盧新華の短編小説「傷痕」が命名の由来。文革の教条主義教育を受けた少女を教師の目で見た劉心武「クラス主任」(77年)が最も早期の代表的作品とされる。傷痕文学は劉克の中編小説「飛天」、王靖の映画シナリオ「社会の記録の中で」などの暴露文学や劉賓雁の「人妖の間」などの報告文学へと発展。共産党や社会主義の欠陥をついたものが多く、保守派の批判を受けるようになった。
●=登におおざと

