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【トウ小平秘録】(119)第5部 最高実力者 自主経営権と失業青年
■犠牲が出ても改革進める
「アヒル3羽飼うのは社会主義で、5羽だと資本主義だと決め付ける地区があると広東で聞いた。全くおかしな話だ。農民にもっと自由を与えなければならない」
1978年2月、トウ小平(しょうへい)氏は、ミャンマー訪問を終えた後、次の訪問地ネパールに向かう前に、四川省成都に立ち寄り、同省党第1書記の趙紫陽(ちょうしょう)氏(肩書は当時、以下同)にそう話した。
76年10月、江青夫人ら四人組の逮捕で、文化大革命が事実上終結し、農民の経済活動への規制は緩み、副業を容認する地方が増えた。しかしなお、副業を「資本主義のシッポ」とした文革の影響は残っていた。
冒頭のトウ小平氏の指摘は、副業の規模を制限する傾向を批判したものだ。副業が「実業」化すれば、集団経済の原則に反すると考える地方当局者がまだ主流だった。
トウ氏は、趙紫陽氏が60年代に広東省で生産請負制を実施して、農業生産を回復させた手腕に注目、75年秋に四川省に転任する前には、趙氏に「大胆にやれ、批判を恐れるな」とハッパをかけた。
その後まもなく、トウ氏は失脚してしまうが、趙氏は目覚ましい成果を上げ、安徽省の万里第1書記とともに農村改革の先頭に立っていた。
趙氏は、農民の自主性を重視、農業への干渉を弱め、一部地域で始まった事実上の生産請負制も容認した。養殖業や果実生産などにも力を入れ、農業生産は毎年、増産、増収を実現した。同時に、一部の国有の工場や商業で自主経営権を拡大する試みも始めた。
趙氏の手法は当時の政策や規定を逸脱していたため、華国鋒(かこくほう)指導部から再三、批判を受けた。しかしトウ小平氏は「自分の範囲(権限)内で解決できることは先に解決する。それには、地方に一定の融通性を与えるべきだ」と趙氏を支持した(趙蔚(ちょうい)著「趙紫陽伝」、楊継縄(ようけいじょう)著「中国改革年代的政治闘争」など)。
このとき、トウ小平氏は、社会問題になりつつあった下放青年の就業問題に言及している。
「知識青年の(就業)問題の解決策は、都市の工業発展につきる。重工業が発展した後、軽工業やサービス業に就業の門を開けないか。資本主義国と違ってわが国のサービス業従事者は極めて少ない。観光業を発展させれば、多くの人を使える」(「トウ小平年譜」)
毛沢東の「上山下郷」の呼びかけで、文革中に農山村に移住した中高生は1500万人以上。一部は文革終結で都市に戻り始めていたが、彼らの就職をどうするか、トウ氏は頭を痛めていた。
翌79年、失業問題が一気に表面化、深刻化する。知識青年の都市復帰が主因ではなかった。国有企業に自主経営権を認める改革に着手した結果、企業側が新規雇用を手控えたためだった。
社会秩序は乱れ、犯罪も急増した、トウ小平氏の改革によって、社会は不安定化していく。
1979年秋、筆者(伊藤)は1カ月間、中国各地を2年ぶりに取材した。社会の変化はすさまじく、広州や長沙では物ごいに囲まれた。
最も驚いたのは上海の秘密売春組織との遭遇だ。「経営者」を通じ、数人の「従業員」を取材したが、全員が十代だった。外国たばこやヌード写真の密売者に出会い、たかりにも遭った。彼らはみな失業者だった。
その年の失業者数は、約2000万人とされ、その多くが新卒者だった。78年末から国有企業に自主経営権を与え、生産向上を図る実験が始まり、就業問題を深刻化させた。
いくつかの生産現場を取材したが、どこも生産競争が熾烈(しれつ)で、生産ラインごと、労働者ごとのノルマと成績表が掲示されていた。成績によって表彰される者も減給や停職になる者さえいた。
国家に経営権があった時代には、企業は与えられたノルマを果たせばよく、仮に赤字になっても国家が面倒をみてくれた。従業員は国家が分配し、どの職場でも過剰労働力を抱えていたから、独立採算を要求される自主経営では、人員合理化が急務になった。
社会主義に失業者はいない建前から、失業者を救済する制度はなかった。ごく少数とはいえ、生きるために不正行為に走る失業青年を生む理由だった。
トウ小平氏は78年2月に趙紫陽氏と会ったときには、そうした事態を予測していたに違いない。しかしその解決には経済発展以外になく、それには一時的に犠牲が出ても改革を進めねばならないと決意していた。
79年に知識青年の都市復帰が急増し始めると、事態は深刻さを増した。彼らを含め、失業青年のほとんどは、副業で糊口(ここう)をしのぐ。路上の物売りから労役提供までさまざまな稼ぎ口を探した。
当時は、商店や食堂も国有で、サービス意識はゼロだった。青年たちが始めた露店などは市民の歓迎を受け、急成長していく。「個体戸」(個人営業)と呼ばれ、中には安徽の瓜子売りのような成功物語も生まれた。
個体戸は計画経済の枠を突破した、商品経済の走りだったため、当然、保守派の攻撃を受けた。トウ小平氏はしばらくして支持し、81年7月には失業者救済を名目に、従業員8人以内などの条件付きで個体戸が公認される。
安徽の瓜子売りが経営規模を拡大、高収益をあげると、「新生の資本家を取り締まれ」との声が広がった。トウ小平氏は「取り締まればまた政策が変わったといわれる」と拒否する。
失業者が生んだ市場経済の芽を摘みとる気はなかったのだ。(伊藤正、矢板明夫)
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【用語解説】安徽の瓜子売り
安徽省蕪湖市の元こじき、年広久氏は文化大革命中、個人経営で果物などを販売したとして「社会主義破壊」の罪を問われ、2度も投獄された。70年代後半から瓜子(食用ひまわりの種)を独自の調理法で加工、販売し、人気を博す。わずか数年で従業員150人の民営企業に成長した。

