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【トウ小平秘録】(118)第5部 最高実力者 経済特区の挑戦

2007.11.27 03:43
このニュースのトピックストウ小平秘録

 ■資本主義認めるに等しい

 トウ小平(しょうへい)氏が3度目の復活を遂げた1977年夏以降、胡耀邦(こようほう)党中央組織部長による冤罪(えんざい)事件の見直しが進み、多数の老幹部が復職した。今秋の第17回党大会で政治局常務委員になった習近平(しゅうきんぺい)氏の実父、習仲勲(しゅうちゅうくん)氏もその一人だった。

 習仲勲氏は共産党の最古参幹部で、建国後中央宣伝部長や副首相などの要職を歴任したが、62年に「反党陰謀」容疑をかけられて失脚。78年4月に広東省第2書記(79年に第1書記に昇格)として復活、後に「対外開放の祖」と呼ばれる。

 就任当時、習氏が直面した最大の問題は、香港への密航者対策だった。香港に隣接する宝安県(現深セン市の一部)では、78年に約5万人の密航者が拘束されたが、密航に成功したり、海を渡る途中死んだりした統計外の人はそれ以上と推計された。

 密航の動機は、60年代の食糧難時代以来、香港の豊かさへのあこがれが主だった。78年当時、中国本土と香港の労働者の収入は、100倍も開いていた。

 当時、習仲勲氏と一緒に深センと香港の境界一帯を視察した共産党幹部は、産経新聞の取材に対しこう振り返る。

 「香港との境界線は一目で分かった。向こう側の田畑は一面青々と茂り、こちら側は黄色の土地がのぞき、細々と作物が植えられていた。習仲勲はショックを受け、つぶやいた。『同じ環境でこんなに差があるのは、こちらの制度に問題があるに違いない』」

 習氏は密航者対策は、取り締まり強化ではなく、香港との経済格差縮小こそ不可欠と考え、部下に研究を命じる。アジアで経済発展の著しい四小竜(台湾、香港、シンガポール、韓国)の経験を調べ、行き着いた結論は「海外の資本と技術を導入するしかない」だった。

 79年4月、北京で開かれた党中央工作会議で、習仲勲氏は「広東の経済発展を速め四小竜に追いつくため、より大きな自主権を与えてほしい」と求めた。

 それ以前に深センは「輸出商品生産基地」に指定されていたが、そこに香港や海外華僑からの投資誘致、加工貿易を中心にした輸出特別区を設ける。それが習氏の構想だった。が、外資誘致には、税制面の優遇など国内制度の枠を超えた独自の措置が必要だった。

 習氏の構想に会議は紛糾する。限定された区域とはいえ、そこに特別措置を講じて外資を導入すれば、資本主義の手法を認めるに等しい。指導者の間に抵抗が少なくなかった。副首相の一人はこう発言したという。

 「どうしてもやるというなら、広東省の周りに7000キロの鉄条網を張りめぐらせ、隣接省に資本主義が侵入するのを防がねばならない」

 トウ小平氏は沈黙していたが、しばらくして習仲勲氏に語りかけた。

 「なかなかいいアイデアではないか。ただし中央にはカネがないから、君たち自身の力で、活路を開いてくれ」(馬立誠(ばりっせい)ら著「交鋒」など)

 それで決まりだった。

                   ◇

 ■失敗してもかまわない

 トウ小平氏が常に強調するのは「安定団結」だった。党内に議論が多い問題には慎重に対応する例は、前回書いた農村の家庭請負生産制にも見られた。安徽省の小村が決めた請負制に支持を表明したのは1年半後だった。

 農村の請負制はかつてトウ氏自身が推進し、生産増強の経験があった。計画経済主義者の陳雲(ちんうん)副主席(肩書は当時、以下同)でさえ、トウ氏より先に生産請負制を支持した。

 広東省の習仲勲第1書記の輸出加工区構想は、生産請負制以上に反対論を招くリスクのあるアイデアだったが、トウ氏は即座に受け入れた。それについて元新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏は著書「中国改革年代的政治闘争」でこう解釈している。

 「トウ小平はずっと改革・開放の突破口を捜していた。一つの実験場だ。全国の改革の道を探るために、まず、一部の地区に自由を与える。小さな所だから失敗しても構わない。習仲勲報告を聞き、トウ小平は深センを思いついたに違いない」

 この前年、トウ氏は日本に次ぎ東南アジア3国を歴訪、シンガポールに特に感銘を受ける。当時取材した西側記者によると、トウ氏はシンガポールを視察した際、「これが中国人が造った国か」と発展ぶりに驚き、「中国と違って小国だからな」と漏らしたという。

 そのとき、トウ氏はリー・クアンユー首相と3時間も会談し、シンガポールの経験を聞いている。リー首相は、発展には政治的安定と対外開放が必要と述べ、トウ氏も同意したと回顧録に書いている。それもトウ氏にヒントを与えたに違いない。

 広東省深セン、珠海、汕頭と福建省廈門(アモイ)の4地区に「経済特区」設置が正式に承認されたのは80年5月である。「実験」としての承認だったが、数年後には軌道に乗り、外貨の獲得源になっただけでなく、全国の開放と改革を促していく。

 すべてが順調だったわけではない。密輸事件や腐敗問題などが相次ぐ中で、社会主義の正統派を称する保守派は改革・開放攻撃の材料にしていく。保守派重鎮の陳雲氏はその死(95年)まで、特区に足を運ばなかった。

 トウ小平氏は特区への信念と支持を終生変えなかった。小さな4つの点から始まった対外開放は、いまや中国全土に広がり、経済を発展させている。毛沢東の旗を掲げながら、毛沢東の想像もしない中国にした起点が経済特区だった。(中国総局 伊藤正、矢板明夫)

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