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【トウ小平秘録】(117)第5部 最高実力者 生産請負制
■当初は支持をためらった
トウ小平(しょうへい)氏が1979年3月、「毛主席の偉大な旗」を擁護し、社会主義の「4つの基本原則」を堅持せよと演説したことは、民主化運動に打撃を与え、思想の解放を進めていた胡耀邦(こようほう)党中央宣伝部長(肩書は当時、以下同)ら改革派を動揺させた。
当時、党中央学校政策研究室主任で、トウ氏の演説を直接聞いた阮銘(げんめい)氏は著書「トウ小平帝国」で、その経緯や影響などを詳述した上で、こう書いている。
「トウ小平は11期3中総会(78年12月の中央委員会総会)での勝利を支えた『民主の壁』の盟友を裏切ったが、彼はなお人民の広範な支持を失っていなかった。中国は希望に満ちた改革・開放の新時代へ再び歩を進めた」
当時の中国国民の大多数が求めていたのは、「民主」よりも「食糧」だった。思想よりも貧困や飢餓からの解放こそ切実だった。その欲求が農村改革の原点になった。安徽(あんき)省鳳陽(ほうよう)県小崗(しょうこう)村の経験から改革の歩みをみる。
小崗村は当時、20世帯115人の小村。全村で人民公社の末端単位である生産隊を構成していた。78年、村は大干魃(かんばつ)で壊滅的な打撃を受けた。食糧は底をつき、いずれ餓死者が出かねない窮地に陥った。
78年12月、生産隊の幹部3人が相談、重大な方針を決める。全世帯の代表20人がひそかに集まり、ある誓約書に血判を押していった。
「私たち幹部は投獄、死刑もいとわない。(その場合)人民公社の社員のみんなは私たちの子供を18歳まで育てることを保証する」
幹部3人が決めた方針とは、世帯別の生産請負制の実施だった。生産隊の農地を各世帯に分け、生産も分配も世帯に責任を負わせる方式で、農民の労働意欲を高め、増産しようというものだ。
60年代初めの食糧危機の際、「農地公有、共同労働、統一分配」の人民公社に代え、多くの地方で実施、増産に成功した経験があり、小崗村もその一つだった。しかし毛沢東が資本主義路線と批判して以来、タブーになり、禁を犯せば厳罰必至だった。
小崗村の試みは口コミで伝わり、周辺の生産隊から全省に広がった。しかし華国鋒(かこくほう)指導部は「資本主義の復活」ととらえた。農業担当の王任重(おうにんじゅう)副首相は猛反発し、「生産請負制の禁止」を通達、人民日報などで批判キャンペーンを展開した。
これに抵抗したのは、安徽省党委書記の万里(ばんり)氏だった。人民日報を読んで動揺した鳳陽県幹部に対し、「人民日報が君たちに飯を食わせてくれるのか」と語り、農民支持の立場を明らかにした。
万里氏は建国前からトウ小平氏と行動を共にしてきた部下で、鉄道相だった75年、鉄道輸送再建でも活躍した。77年に安徽省に赴任した後も、農家の副業従事や農産物の自由市場での販売を認め、農村復興に尽くした。
しかしトウ小平氏は沈黙したままだった。「毛主席の旗」が支持をためらわせたに違いない。
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■大豊作で流れが変わった
安徽(あんき)省鳳陽(ほうよう)県から始まった生産請負制は、中央だけでなく全国の批判を受けた、と元新華社記者の楊継縄(ようけいじょう)氏が著書「トウ小平時代」に書いている。
それによると、北京、湖南、山西など各省市は、党委機関紙で「資本主義復活を警戒せよ」などと攻撃。江蘇省は、安徽省との境界に「田畑を分けることに反対する」との看板を立て、拡声器で安徽省側に向け非難を浴びせ続けた。
華国鋒(かこくほう)主席も公式の場で安徽省のやり方を繰り返し批判した。79年の段階では万里(ばんり)氏支持の有力者は胡耀邦(こようほう)党中央宣伝部長くらいのものだった。同年9月の第11期中央委第4回総会(4中総会)は「特殊なケースを除き、世帯単位の農地の請負制を認めない」と改めて決定、万里氏は孤立した。
こうした中、全県の約70%の生産隊が請負制を実施した鳳陽県では、歴史的な豊作を記録した。79年秋、同県は政府に4450万キロの穀物を売却したが、これはそれまで26年間の合計に相当した。小崗(しょうこう)村の穀物生産高は前年の4倍にも達した。
80年5月、トウ小平氏は初めてこの問題について談話を発表する。
「一部の地域で、生産請負制を実施したが、すばらしい成果を上げた。集団経済への影響を心配する人もいるようだが、心配の必要はあるまい」
これで一気に流れが変わった。同年9月、党中央は農村政策に関する通達を発し、生産請負制を容認した。当時の事情に通じた元共産党高官は産経新聞の取材に対し以下のように証言した。
「トウ小平は最初、全面的な請負制に対してはそれほど積極的ではなかった。万里は何度も上京してトウ小平の説得を試みたがダメだった。鳳陽県の大豊作がトウ小平を決断させた最大の理由だ。彼は徹底した現実主義者だから」
万里氏はその後まもなく、農業担当の副首相に抜擢(ばってき)された。生産請負制は83年の初めには、全国の約94%の生産隊が導入、84年には人民公社の廃止が決まる。
92年、トウ小平氏は南巡講話の中でこのように振り返った。
「中国の改革は農村から始まった。発明権は農民にあった」
小崗村の農民が決死の覚悟で始めた生産請負制は、自らの生存のためだった。共産党の枠を超えた国民の自発性が、改革・開放のエネルギーを生んでいく。
(中国総局 伊藤正、矢板明夫)

