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【トウ小平秘録】(115)第5部 最高実力者 ベトナム戦の教訓
■軍隊の体制改革が必要だ
「われわれが得た大きな教訓は、ニワトリを殺すには牛刀が必要だということだ」
1979年3月8日、トウ小平(しょうへい)氏は軍の作戦問題に関する会議でそう発言した(「トウ小平年譜」)。その3日前、中国軍は2月17日に侵攻したベトナムから撤退を開始しており、中越戦争(中国側呼称は「自衛反撃戦」)の「教訓」の一つにほかならない。
「牛刀」とは強大な軍事力を意味する。ベトナム側は、ベトナム戦争中に中国やソ連が供与した兵器に加え、米軍から捕獲した最新の兵器や装備で中国軍を苦しめた。
中国軍が撤退を完了した3月16日、党中央が招集した対越戦の状況報告会で、トウ氏はこう話す。
「われわれは今後、いくつか成すべきことがある。その第1は経験の総括だ。軍事上は、軍隊建設の方針、軍隊の体制と訓練で考えねばならぬことがある。例えば現在の編隊制度は改革が必要だ」
中国は文化大革命中に、55年に制定した軍位階制を廃止していたが、中越戦争では指揮系統が乱れ、通信設備の不足、老朽化もあって、同士打ちが少なからず発生した。政治第一で訓練も十分ではなかった。
トウ氏はさらにこう話した。
「11期3中総会(78年12月の党中央委第3回総会)の精神に照らし、活動の重点を現代化建設に移し、経済活動をしっかりやらねばならない」
トウ氏にとって、これが中越戦争の最大の教訓だったかもしれない。経済の実情からすれば、戦争などやっている場合ではない、と気付いたようにみえる。
中国の対越侵攻に、ソ連は、ソ越友好協力条約に言及してベトナム支援の構えを示し、東欧諸国も中国を激しく非難した。それは想定の範囲内だったが、米政府も中国に即時撤退を求めるなど、国際世論の反発は予想以上に大きかった。
ベトナムは中国の意に反してカンボジア支配を強化、国境地帯で対中攻撃を続けた。ソ連も戦略的攻勢を強め、79年12月にはアフガニスタンに侵攻、78年から始まったデタント(緊張緩和)の動きは吹き飛んだ。
この間、米中は協力関係を拡大していく。トウ小平氏はソ連の拡張主義を批判しつつも、経済建設加速に集中し、国内の諸改革を始める。80年1月初めに訪中したエジプトのムバラク副大統領(当時)には、「世界各地で戦争の危険が存在する」としながら、こう話す。
「われわれが直面している問題は、戦争爆発の危機を緩和し、長期間の平和を勝ち取ることだ。われわれは今世紀内に4つの現代化(農業、工業、国防、科学技術の現代化)を実現する目標を定めたが、平和な国際環境なしには不可能だ」
トウ小平氏はこの後、「平和な国際環境」を繰り返し強調、「すべての国との友好関係、経済協力」の方針を打ち出す。
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■権威確立のためだった
今日、中越戦争に関する著述はほとんどない。多大な犠牲者を出し、国際的反発を買っただけではない。武力による国際紛争の解決は、中国の外交原則にも改革・開放にも反しているからだろう。
しかし、中越戦争をトウ小平(しょうへい)氏の「偉大な業績」とたたえる人物もいる。2005年春の反日デモを扇動する文章で有名になった中国空軍の論客、劉亜洲(りゅうあしゅう)中将だ。
劉氏は02年に軍内で講演(ネットに流出)、訪米と中越戦争でトウ氏が米国と連合した結果、米国から経済、技術、軍事などの支援を勝ち取ったと指摘し、それなしには「改革・開放は不可能だった」と述べている。
劉氏は、トウ氏が戦争を発動した動機について「絶対的権威確立のためだった」としている。
「当時、トウ氏は復活して日が浅く、党内で権力を握る極左派は、トウ氏とその改革路線に反対していた。改革をやるには権威が必要だった。その最速の方法は戦争だ」
当時、胡耀邦(こようほう)中央宣伝部長のブレーンで、中央党学校政策研究室主任だった阮銘(げんめい)氏も、その点ではほぼ同じ見方をしている(「トウ小平帝国」台湾・時報文化出版)。
「トウ小平は、毛沢東が1960年代に中印国境での自衛反撃戦(中印戦争)を指揮、破竹の勝利を収めたのにならい、全国人民の支持を獲得しようとした」
中国の各種資料によると、中国は79年1月7日、ベトナムの軍事顧問経験のある楊得志(ようとくし)上将を昆明軍区司令官に任じ、前線総指揮官に決定。その後、中央軍事委拡大会議で、部隊配置計画を決め、1月中旬から部隊移動が始まった。
対越作戦には20万人以上が動員されたとされ、たちまち国民の間に情報が流出、うわさ話が広まった。つい数年前まで「米帝国主義者」に対して共に戦った社会主義の友好国への戦争に、国民だけではなく、指導部内にも疑問の声が少なくなかった。
中国は78年12月に現代化路線へ転換、「思想の解放」が強調され、文革期とは一転、社会には自由な空気が満ちていた。「西単の壁」と呼ばれた北京の民主化運動はその象徴だった。
その運動の旗手だった魏京生(ぎきょうせい)氏は中越戦開始後、外国人記者に中越戦についての「街のうわさ話」をし、トウ小平氏を批判、中越戦後にはトウ氏を「新たな独裁者」と決めつける文章を書く。彼もまた、中越戦をトウ氏の権力確立の手段とみていた。トウ氏は激怒、民主派への弾圧を始める。。(中国総局長 伊藤正)

