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【トウ小平秘録】(111)第5部 最高実力者 経済大国への道
■まぎれもなく中核だった
「世界には百数十の国があるが、わが国民の平均収入は下から数えて二十数番目だ」「われわれはあまりにも貧しく、立ち遅れている。正直言って、人民に申し訳ない」
1978年9月、訪問した北朝鮮からの帰路、東北3省と河北省を視察したトウ小平(しょうへい)氏はそう話し、各地の指導者に経済建設に奮闘努力を呼びかけた。それから29年後の今年、中国はドイツを抜き去り米国、日本に次ぐ世界第3の経済大国になる見通しだ。
年平均9%台半ばの驚異的成長を続けた結果だった。その起点になったのは、トウ氏の東北視察から3カ月後の中国共産党第11期中央委員会第3回総会(3中総会)。そこで毛沢東の継続革命路線から、改革・開放と後に呼ばれる近代化路線へ歴史的転換をした。
そこに至る長い道のりは本連載第3部「文化大革命」と第4部「第2の革命」で書いた。しかし3中総会はあくまで出発点にすぎなかった。毛沢東路線の全面継承を掲げてきた華国鋒(かこくほう)主席(肩書は当時、以下同)ら文革派はなお党中央の多数を占めていた。
第4部最終回で書いたように、3中総会のコミュニケは「さらに緊密に毛沢東思想の旗の下に結集、華国鋒同志を頭とする党中央の周囲に団結し…」とうたい、党機関紙「人民日報」はその部分を抜き出して報じた。
しかし3中総会を機にトウ小平氏に権力が移行したことは明らかだった。トウ氏自身、民主化を求める学生らを武力鎮圧した第2次天安門事件4日前の89年5月31日、李鵬(りほう)首相、姚依林(よういりん)副首相に次のように話している。すでに解任が決まっていた趙紫陽(ちょうしよう)総書記の後任に江沢民(こうたくみん)上海市党委書記を内定した直後のことだ。
「わが党の歴史上、成熟した指導部ができたのは毛沢東、劉少奇(りゅうしょうき)、周恩来(しゅうおんらい)、朱徳(しゅとく)の一代(革命第一世代)からだ。二代目はわれわれで、いま三代目に交代するところだ。華国鋒は過渡的な人物にすぎず、二代目とはいえない。彼には独自のものがなく、(毛沢東の決定、指示はすべて正しいという)『二つのすべて』だけだった」
同年6月16日に行った講話では、毛沢東が第一世代指導集団の中核だったとし、こう続けた。
「11期3中総会で新指導集団が確立された。これが第二世代の指導集団で、実際には私が決定的な地位にあったといってよい」(「トウ小平文選」第3巻)
3中総会当時、華国鋒氏は党主席、軍事委主席、首相の三大ポストを兼任し、トウ小平氏は各ポストの「副」職だった。華氏は80年9月に、首相を趙紫陽氏に、81年6月に党主席(82年から総書記)を胡耀邦(こようほう)氏、軍事委主席をトウ氏にそれぞれ奪われる。
トウ氏は党主席にも総書記にも就かなかったが、まぎれもなく第二世代の中核であり、「最高実力者」だった。時に74歳。トウ氏の新たな挑戦が始まる。
■貧困は社会主義ではない
1978年9月の東北部などを視察中、トウ小平(しょうへい)氏が各地指導者に行った講話は、「北方談話」と呼ばれる。その中には、第2次天安門事件(89年6月)後の保守回帰を痛烈に批判、改革・開放加速を号令した92年の「南巡講話」と同じ表現が多数含まれている。
「貧困は社会主義ではない」「経済を発展させ人民の生活を向上させることこそ政治だ」「(発展方式に)タブーはない」「内に閉じこもっていてはだめだ」
改革・開放の経験を経た92年と違って、北方談話を発表した当時は、華(か)国鋒(こくほう)主席ら毛沢東路線護持派が党の中枢を占め、党内外で毛路線の影響がなお根強かった。このためトウ氏は北方談話で、思想の解放を力説した。毛沢東時代の発想ややり方から脱することだ。
北方談話でトウ氏は、中国がいかに世界から遅れているかを具体的に語る。そこで日本や米国、西ドイツ(当時)の現状と比較し、労働力が多すぎ生産効率が低いことを指摘し、労働者の賃金、生活まで改善する必要を説く。
鞍山製鉄所(遼寧省)では、15万人の労働者で年間の粗鋼生産が最大1500万トンと聞くと「日本なら3万人もいれば十分だ」といい、鉄鉱山の生産向上に関し「毛主席は60年代初め、日本に鉱山を一つ開発させたらどうかと提起した」エピソードを明かした。外国の資金と技術に依存する方式だ。
「その当時は、現代化の条件がなかったが、いまはある。中央が決心しないと多くの問題が提起できない」
《以上は、中央文献出版社「百年小平」、江蘇教育出版社「トウ小平視察紀実」などによる》
トウ氏は、その決意を固めていた。西側に門戸を開き、その資金と技術を大胆に取り入れ、生産力を急速に向上させるのだ。この発想に自力更生路線の毛沢東とトウ氏の決定的違いがある。
トウ小平氏には成算があったに違いない。この北方談話の前、7月から始まった米国との国交正常化交渉が進展(国交樹立は79年1月)、8月には、難交渉の末、日中平和友好条約が締結されていた。
トウ氏はこの年10月、日本を、翌79年1月には米国をそれぞれ訪問、日米はその後、改革・開放の強力なスポンサーになっていく。それはトウ氏の権力を一段と強めさせた。(中国総局長・伊藤正)
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【プロフィル】トウ小平氏(1904・8・22〜1997・2・19)
四川省生まれ。生涯で3度も失脚を経験したが、そのたびに復活。78年以降は最高実力者。
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【用語解説】北方談話
1978年9月13〜20日、トウ小平氏が黒竜江、吉林、遼寧の東北3省と河北省唐山、天津市を視察した際、各地指導者に行った談話。改革・開放の基本的な考えを述べ、各地の生産活動上の問題点を具体的に指摘した。この中では、当時はまだ集団農業のモデルだった大寨生産大隊(山西省)について部分的に批判。これに先立つ北朝鮮訪問では、金日成主席に、国際的先進技術を現代化の出発点にする必要を説いている。


