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【トウ小平秘録】(110)第4部 第2の革命 11期3中総会

2007.10.7 03:06
このニュースのトピックストウ小平秘録

 ■名より実、現代化を急いだ

 1978年12月16日(米東部時間15日)、米中両国は79年1月1日に国交を樹立すると発表した。その日、華国鋒(かこくほう)党主席兼首相(肩書は当時、以下同)は人民大会堂で100人余の内外記者と会見、穏やかな表情で質問に答えた。

 このとき、記者たちの質問は対ソ関係への影響など対外政策に集中した。その直前まで1カ月余にわたり中央工作会議が開かれ、華氏が自己批判、毛沢東時代の重大事件が名誉回復されたことはだれも知らなかった。

 この記者会見の2日後の18日から22日まで、共産党第11期中央委員会第3回総会(3中総会)が開かれた。8000華字近い総会コミュニケが23日発表され、人びとは重大な決定を知る。

 3中総会は、トウ小平(とうしょうへい)氏が権力を握り、毛沢東の文革路線から、経済建設を中心とする改革・開放路線に転換した歴史的会議とされている。

 その綱領的文書といわれるコミュニケは、「全党の活動重点を社会主義現代化建設に移す」とし、中央に集中した権限を地方や企業単位に下放することなど、生産力を向上させるための幾つかの具体策も打ち出した。

 しかし多くの人が注目したのは、76年4月の第一次天安門事件や、毛沢東と対立し国防相を解任された彭徳懐(ほうとくかい)事件(59年8月)など、中央工作会議で提起された重大事件を冤罪(えんざい)と認め、名誉回復を正式決定したことだ。

 天安門事件については、11月中旬、北京市党委員会が「革命行動」と評価し直し、拘留されていた400人近くが釈放されており、人びとは当然と受け止めた。しかし彭徳懐事件の名誉回復は驚きを呼んだ。

 同事件は8回目の路線闘争として正式に党史に刻まれ、他の冤罪事件とは別格だった。その評価の転覆は、毛沢東の権威だけでなく、毛沢東無謬(むびゅう)論を権力維持の盾にしてきた華国鋒主席の立場を傷つけるものだった。

 ところが3中総会を報道した12月24日付の党機関紙「人民日報」は1面トップにコミュニケの最後の一節を抜き出して掲載した。

 「さらに緊密に毛沢東思想の旗の下に結集、華国鋒同志を頭とする党中央の周囲に団結し、わが国の立ち遅れた姿を根本的に改変、現代化した偉大な社会主義強国建設のため奮闘前進しよう!」

 これはどうしたことか。

 総会コミュニケは、「毛沢東同志」「毛沢東思想」という言葉が24回も出てくる。毛を「偉大なマルクス主義者」とし、革命における「不滅の功績」をたたえ、毛沢東思想なしに「中国革命の勝利はない」としていた。

 名誉回復された冤罪事件には、毛沢東に主要な責任があったが、コミュニケは毛の関与には触れず、こう強調している。

 「毛沢東同志は一貫して実事求是(事実に基づき真理を求める)と誤りは必ず正す原則を提唱してきた。(それにより)冤罪を晴らすことが党と毛沢東同志の崇高な威信を擁護することになる」

 「実践は真理を検証する唯一の基準」論の意義を強調しながら、その批判対象になった華国鋒氏ら「毛沢東はすべて正しい」とする「すべて派」にも触れず、華氏の四人組打倒やその後の政策をたたえてさえいた。

 「トウ小平は3中総会で名よりも実を取ったのだ」とある知識人は言う。その根拠の一つは、次の人事だった。

 「すべて派」批判で功績を上げた陳雲(ちんうん)氏は副主席に復帰、側近の胡耀邦(こようほう)氏ら3人が政治局員に昇進、彭徳懐事件で失脚した黄克誠(こうこくせい)元軍総参謀長ら9人が中央委員に復帰または登用されたのだ。

 一方で、華主席はむろん、華氏の右腕で、「すべて派」の闘将だった汪東興(おうとうこう)氏も副主席の地位を守り、他の「すべて派」政治局員数人も更迭されなかった。

 トウ氏が3中総会で取った「実」とは、党の最高権力を握り、現代化を実行する路線と体制を整えることだった。なお毛沢東信仰が残る中で、文革の根幹にかかわり紛糾を招きかねない劉少奇(りゅうしょうき)元国家主席などの名誉回復を先送りした理由だ。

 既に74歳になっていたトウ小平氏は、中華再興のため現代化への転換を急いでいた。そのためには、安定団結が必要であり、毛沢東の旗を掲げ、華国鋒体制を維持することもよしとした。

 トウ小平氏が3中総会で「毛沢東に次ぐ、党の第2世代の指導者の地位を確立した」と言われるようになったのは、しばらく後のことだ。その前には、なお「すべて派」との闘争が必要だった。

 トウ小平氏がその闘争で武器にしたのは、毛沢東思想の「正しい解釈」だった。それは毛沢東路線の正統派を名乗る保守派に強力な基盤を与え、後に改革派攻撃を招く。

 トウ氏の改革・開放は、毛沢東もマルクスも仰天しそうな斬新な理論、アイデアだった。保守派と妥協しながら、トウ氏はそれを貫き、今日の中国の発展を導いた。人はそれで「第2の革命」と呼ぶ。

 だが、トウ小平路線がはらんでいた矛盾は、89年の第二次天安門事件で爆発した。そこに至る過程は本連載第5部の主要なテーマとなる。(伊藤正)

 =第4部おわり

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