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【トウ小平秘録】(109)第4部 第2の革命 中央工作会議
■毛沢東の決定が覆された
北京の西長安街にある京西賓館は外観はホテルだが、ガイドブックはむろん、電話帳にも載っていない「内部施設」だ。常時、厳重な警備が敷かれ、共産党や軍などの非公開大型会議の会場になる。
毛沢東時代からトウ小平時代への歴史的転換点になった1978年11〜12月の2つの重要会議、中央工作会議とそれに続く党11期中央委員会第3回総会(3中総会)も京西賓館で開かれた。両会議は合わせて40日間を超える長丁場だった。
3中総会の予備会議である中央工作会議は11月10日に開幕した。会議を主宰した華国鋒(かこくほう)党主席(肩書は当時、以下同)が冒頭演説で、79年以降の活動の重点を経済建設に移す方針を示し、農業問題や経済計画案について討論を呼びかけた。
華氏はその中で、毛沢東無謬(むびゅう)論に異を唱える「実践は真理を検証する唯一の基準」論文が巻き起こした論争には触れなかった。その論争では、毛沢東の指示、決定はすべて正しいとする華氏ら「二つのすべて派」は窮地に陥っていた。
会議開幕当時、トウ小平氏は東南アジア3カ国歴訪中で不在だった。出発前にトウ氏は経済重点への移行を提案しており、華氏はそれに同調することで、事態を乗り切ろうとしていた。
そのもくろみは、すぐに破綻(はたん)する。口火を切ったのは陳雲(ちんうん)全国人民代表大会副委員長だった。陳氏は12日の東北組分科会で、「活動重点を転換する前に歴史の遺留問題を清算すべきだ。それなしに安定団結はできない」と主張した。
遺留問題の清算とは、毛沢東時代の冤罪(えんざい)事件の名誉回復を指す。陳氏は66年の文化大革命開始後、36年に党の指示で偽装転向した61人の党員を「裏切り者」とした「六十一人事件」、そして「中国最大の保皇派」として迫害された陶鑄(とうちゅう)中央宣伝部長の事件を冤罪と指摘した。
さらに59年に毛沢東と対立して国防相を解任、文革でも迫害された彭徳懐(ほうとくかい)事件や76年4月の第一次天安門事件といった、毛沢東が直接関与した最も敏感な問題についても名誉回復を要求した。
陳氏は最後に、特務機関を握り数々の冤罪をつくりだした康生(こうせい)副主席が75年に死去した際、「プロレタリア革命家」など3つの称号を与えた訃告を取り消し、康氏を批判すべきだと強調した。
中共中央党史研究室副研究員薛慶超(せつけいちょう)氏の著書「紅壁決策」などによると、陳氏の「爆弾発言」が伝わると、大反響を呼び、会場は熱気に包まれた。農業問題などの討議は棚上げになり、各分科会は歴史遺留問題で議論が沸騰した。
胡耀邦(こようほう)中央組織部長、万里(ばんり)安徴省第一書記など中央、地方の指導者や、聶栄臻(じょうえいしん)元帥はじめ軍長老らも相次いで陳氏支持を表明、陳氏が触れなかった冤罪問題も提起された。華国鋒氏は会議をコントロールできなくなった。
進退窮まった華氏は11月25日の全体会議で演説し、陳雲氏が提起した第一次天安門事件など4件のほかに、67年2月に軍長老らが極左派を批判した「二月逆流」事件や、文革前、「反党分子、スパイ」とされ失脚した楊尚昆(ようしょうこん)中央弁公庁主任の件も冤罪として名誉回復すると発表した。
また康生氏とその配下の謝富治(しゃふじ)元公安相の批判を中央組織部で審査することを認め、75年秋以降の「右からの巻き返しに反撃する」とのトウ小平批判運動も誤りだったと述べた。
どれも毛沢東の決定、指示を覆すもので、敗北宣言同然だったが、華氏は、毛沢東の責任には言及せず、「真理検証」論争への態度も示さなかった。その結果、議論は、理論分野に発展した。
トウ小平氏のブレーンの胡喬木(こきょうぼく)中国社会科学院院長を中心に、「二つのすべて」への批判が展開された。論議は白熱し、当初2週間の予定だった会期は何度も延長され、1カ月を超えた。
12月13日の閉幕式で、華国鋒氏は自己批判する。
「『二つのすべて』という表現は毛主席を絶対化し、妥当性を欠いた。さまざまな形で人々の思想を束縛し、実事求是(事実に基づき真理を求める)の精神で党の政策を実現するのを妨げた」
この後、華氏の右腕の汪東興(おうとうこう)副主席も自己批判文を書き、会場で配られた。「すべて派」が実権を失った瞬間だった。
同じ閉幕式で、党中央の主導権を掌中にしたトウ小平氏は会議を総括する演説をした(「思想を解放、実事求是で一致団結し前を向こう」と題し「トウ小平文選」第2巻に収められている)。
この演説でトウ氏は会議が歴史遺留問題を解決し、現代化建設に重点を移行したことを高く評価、さらに民主を発揚して思想を解放しようと訴えた。注目すべきは、毛沢東に誤りはあっても「毛主席なしに新中国はなく、毛沢東思想はわれわれの最も貴重な宝」と述べた点だ。
この考えは、トウ氏は終生変えなかった。毛沢東の旗を掲げ、非毛沢東化路線へ舵(かじ)を切ったのはこの5日後に開幕した11期3中総会だった。(伊藤正、矢板明夫)

