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【トウ小平秘録】(104)第4部 第2の革命 「61人事件」の解決 (1/2ページ)
実権掌握への道を開いた
毛沢東が党の絶対的指導権を握ったのは、1941年からの延安整風で、個人崇拝を確立してからだ。そのとき批判派の粛清に辣腕(らつわん)を振るった特務機関のボス、康生(こうせい)社会・情報部長(肩書は当時、以下同)は、文化大革命(文革、66〜76年)期には四人組の顧問として暗躍、73年には党副主席に抜擢(ばってき)された。
康氏は75年に病死したが、多くの幹部を陥れて迫害、恨みを買った。80年に、「四人組・林彪(りんぴょう)反党反革命集団」の主犯とされ、党を永久除名になった。
ところが、四人組除名とトウ小平(しょうへい)氏の復活を決めた77年7月の10期中央委第3回総会は、物故した毛沢東ら5人の「プロレタリア革命家」の1人に康氏を加え、黙祷(もくとう)をささげた。音頭を取ったのは華国鋒(かこくほう)主席だった。
華氏にすれば、毛沢東を陰で支え、毛が副主席にした康生氏への表敬に疑問の余地はなかった。
77年12月31日昼、胡耀邦(こようほう)中央組織部長が読んだ手紙も、康生氏がたくらんだ事件に関係していた。差出人は王先梅(おうせんばい)といい、夫の王其梅(おうきばい)チベット自治区書記は文革開始直後の66年に、「六十一人事件」で摘発され、翌年に迫害死していた。
六十一人事件とは、36年、白区(国民党支配地区)で国民党に捕まった共産党員61人が偽装転向し釈放されたことを、中央文革小組の康生顧問が蒸し返し「党への裏切り」との罪状をでっち上げた事件だ。当時健在だった40人余りは投獄、迫害を受けた。
その中には薄一波(はくいっぱ)副首相、安子文(あんしぶん)中央組織部長、劉瀾濤(りゅうらんとう)党西北局第一書記ら政治指導者や哲学者の楊献珍(ようけんちん)氏もいた。
偽装転向は白区の地下工作責任者の劉少奇(りゅうしょうき)氏(後の国家主席)が党中央の許可を得て指示した。党は有能な党員を確保する正しい戦術との結論を下し、毛沢東も賛成した。
康生氏の狙いは、劉少奇氏と劉氏につながる薄一波氏らを打倒することにあった。それは毛沢東の意図に合致、毛も61人の罪状摘発を支持した。