MSN Japanのニュースサイトへようこそ。ここはニュース記事全文ページです。

【トウ小平秘録】(101)第4部 第2の革命 統一入試復活

2007.9.27 08:46
このニュースのトピックス受験

■すべてで世界に追いつけ

 1977年7月30日夜、北京市内の工人体育場で行われた中国と香港チームのサッカー試合。キックオフ前、貴賓席に要人たちが現れた。

 「トウ小平(しょうへい)だ!」

 数万の観衆から歓声が上がり、嵐のような拍手がわき起こる。トウ氏が手を振ってこたえると、歓声がさらに大きくなった。

 中央委員会総会(10期3中総会)のコミュニケでトウ小平氏の職務復帰が発表された22日以来、トウ氏が大衆の前に姿を見せたのは、これが初めてだった。

 「トウ小平年譜」(中央文献出版社)によると、トウ氏はこの試合のハーフタイムに国家体育運動委員会の責任者に対し、こう話した。

 「審判員を何人かドイツに派遣し、勉強させたらいい。国際審判員を養成し、審判技術を向上させねばならん」

 大のサッカー好きで、中国のワールドカップ(W杯)出場の夢を見続けたトウ氏は、試合のジャッジに不満だったに違いない。国際水準に遠かったのは、サッカーだけではなかった。

 この1週間前の23日、トウ小平氏は軍事技術教育関係者と会った際、華国鋒(かこくほう)主席、葉剣英(ようけんえい)副主席に申し出て、軍のほかに教育と科学の担当になったと明かし、こう述べた。

 「羅針盤、印刷術、火薬は中国人が発明したが、外国人はそれを学び、さらに発展させた。いまわれわれは外国の先進技術に学ばねばならない。外国に留学生を出すのも、外国の専門家を招くのもよい」

 トウ氏は生涯を通じて、あらゆる分野で「世界に追いつく」を目標に掲げた。このときも「20世紀末まであと23年しかない。大胆にやれ」とはっぱをかけている。

 外国に学ぶだけではない。最も重要なことは、文革で破壊された教育の再建だった。文革前の知識教育をブルジョア主義として否定する「二つの評価」の下で、加減乗除もできない生徒が大学に入学する状況が続いていた。

 トウ小平氏は75年、周恩来(しゅうおんらい)首相に代わって近代化路線を推進した際、知育重視の教育へ転換しようとした。しかし、江青(こうせい)夫人ら四人組の抵抗に遭い、毛沢東もトウ氏を「生産第一主義」と批判、失脚のきっかけになった。

 毛沢東の死去と四人組打倒で、教育改革のチャンスが訪れた。トウ氏は、3中総会前から、方毅(ほうき)国家科学技術委主任らと会い、構想を練る。トウ氏が最重点にしたのは、大学入試の復活だった。

 当時の大学入学には、本人の志願、所属単位の推薦、指導者の許可、学校の審査の4つの手続き(「十六字方針」という)があったが、実際には指導者の許可で決まっていた。指導者は例外なく文革派であり、知識は無視され、コネがまかり通った。

 トウ小平氏は77年8月4日から5日間、全国から教育関係者を集め「科学と教育」座談会を開く。当時、教育省高等教育局長だった劉道玉(りゅうどうぎょく)氏は今年8月、「南方都市報」紙にこう証言している。

 会議最終日、トウ小平氏が「十六字方針は廃止し、統一大学入試を回復、今年から実施する」と話し、劉西堯(りゅうせいぎょう)教育相が「今年の学生募集工作会は終わっており、間に合いません」と発言した。

 それに対しトウ氏は厳しい表情で言った。

 「今年やるのだ。待つことはできない。工作会はやり直せばいい」

 それで年内実施が決まったと劉道玉氏は語っているが、実際はそう簡単ではなかった。

 当時江蘇省の学生募集担当で、座談会に出席した朱軫(しゅちん)氏は今年6月、「南方週末」紙のインタビューに答えている。

 「教育省の募集工作会は40日間以上かかっても結論が出ず、膠着(こうちゃく)状態になった。多くの人が、毛沢東が同意した『二つの評価』を気にしていた」

 内部報告で事情を知ったトウ小平氏は教育省責任者にこう話した。

 「『二つの評価』は現実に合わず、毛主席の同意があっても問題がないことにはならない。正確かつ完全に毛思想の体系を理解すべきだ」

 それが突破口になり、教育省は10月12日、77年度からの統一入試実施を発表した。11年ぶりに再開した入試は12月12日に全国で行われ、570万人が受験、不公平な推薦制度は廃止された。受験料は5角(当時のレートで約70円)におさえられた。

 この復活第1回入試による大学入学組には、優秀な人材が多かった。王毅(おうき)前駐日大使もその一人だ。推薦制の壁に阻まれ、入学時は24歳になっていた。

 国民に等しくチャンスを与えた30年前の入試復活は、トウ氏の大衆人気を高めた。政治的な意味も大きかった。毛沢東の指示、決定はすべて正しいとする「二つのすべて」論はトウ氏の手で初めて破られたからだ。

 この間、8月には第11回党大会が開かれ、華国鋒主席を中心とした新指導部が発足した。トウ小平氏は葉剣英氏に次ぐ第2副主席になったが、汪東興(おうとうこう)中央弁公庁主任が副主席に昇格するなど、「二つのすべて」派も基盤を固めた。

 トウ小平氏の近代化への闘いは始まったばかりだった。(伊藤正)

【用語解説】二つの評価

 中国建国以来、文革開始までの17年間の教育を否定した観点。1971年の全国教育工作会議の「紀要」に盛られ、(1)17年間の教育はブルジョア階級が支配、プロレタリア階級を抑圧した(2)教師の大多数はブルジョア階級の世界観を持つブルジョア分子−の2点。四人組の張春橋政治局員(当時)が主導、毛沢東も同意した。これにより、教師や知識教育は批判対象にされ、教育の混乱に拍車をかけた。しかし78年に四人組の反動路線と批判され、紀要も79年に取り消された。

関連トピックス

PR
PR

PR

イザ!SANSPO.COMZAKZAKFuji Sankei BusinessiSANKEI EXPRESS
Copyright 2008 The Sankei Shimbun & Sankei Digital
このページ上に表示されるニュースの見出しおよび記事内容、あるいはリンク先の記事内容は MSN およびマイクロソフトの見解を反映するものではありません。
掲載されている記事・写真などコンテンツの無断転載を禁じます。