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【トウ小平秘録】(90)第4部 第2の革命 密議、また密議 (1/3ページ)
1976年9月9日に死去した毛沢東の遺体は人民大会堂に安置され、葬儀委員が交代で寝ずの番をした。1週間の服喪が始まった11日午後、葬儀委員長の華国鋒(かこくほう)党第一副主席(肩書は当時、以下同)は、体調不良を訴え、病院に行くと言って大会堂を後にする。
車が向かった先は病院ではなく、李先念(りせんねん)副首相宅だった。華氏は「たぶん尾行されているので、手短に言います」と切り出した。
「あの数人(江青(こうせい)夫人ら四人組)の問題は緊急に解決しなければならなくなりました。さもないと、党も国も滅びてしまうでしょう。至急、葉帥(葉剣英(ようけんえい)元帥=副主席)と相談してくれませんか」
その日のうちに華国鋒氏は、汪東興(おうとうこう)中央弁公庁主任とも相談する。毛沢東側近だった汪氏は、党中央の事務を仕切り、中央警護の8341部隊の責任者でもあった。汪氏は明確に華氏支持を表明した。
李先念氏が口実を設けて北京西郊の軍管制地区、西山にある葉剣英氏の住居を訪れたのは、9月14日。北京市革命委主任の呉徳(ごとく)氏の回想によると、葉氏はこのとき、四人組問題の処理に極めて慎重だった、と華国鋒氏から聞いたという。
当時、葉剣英氏は、「投鼠忌器(とうそき)」ということわざを使って、王震(おうしん)将軍(中央委員)らの武力解決論を抑えていた。ネズミ(江青夫人)に投げた石で、玉器(毛沢東)を割るのを避けよ、という意味だ。
毛沢東と四人組は切り離せない関係にあった。とりわけ江青夫人は悪評を極め、広範な層の恨みを買いながら、毛沢東の庇護(ひご)によって政治的地位を保ち続けた。
彼女が毛沢東の妻だっただけではない。彼女が率いる四人組は毛自身の人生をかけた文化大革命路線の担い手だった。玉器に傷を付けずに、ネズミを捕まえるのは難しい。