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【トウ小平秘録】(86)第3部「文化大革命」 全公職解任 (1/3ページ)
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突然、天安門広場が真昼のように明るくなり、「ウォー」という喊声(かんせい)とともに、1万余の首都労働者民兵が、取り囲んだ数百人の市民に棍棒(こんぼう)で襲いかかった。悲鳴が上がる。実力行使は10分足らずで完了した。死者はなかったが、大量の血が石だたみを染めた。
1976年4月5日夜9時半すぎ、首都北京のど真ん中で起こった第1次天安門事件の場面は、当時共同通信北京支局員として現場取材した私(伊藤)の記憶にくっきりと残る。
その1週間前から連日、数十万の市民が広場に集まり、1月に死去した周恩来(しゅうおんらい)首相(肩書は当時、以下同)の追悼活動を続けていたが、その日は朝から異常な緊張に包まれていた。
その原因は、4日の清明節に向け、市民らが広場の人民英雄記念碑にささげた3000個もの花輪や大小の壁新聞が5日未明に、すべて当局側に撤去されたことだった。
花輪の大半は八宝山革命公墓で焼却されたが、周恩来への追悼句とともに周の写真を添えたものも多かった。夜が明け、撤去を知った民衆は、当局の車両を焼き、警備員に暴行するなどし、当局側は「反革命事件」として鎮圧に出たのだった。
当時の当局側現場責任者だった北京市党委第1書記、呉徳(ごとく)は95年に死去する前に口述した記録「十年風雨紀事」(当代中国出版社)で内幕を明かしている。
それによると、北京市当局は4月3日に各界代表と話し合い、6日に市民側が花輪などを自主撤去することで合意していた。それが4日夜の中国共産党の政治局会議で変わる。
会議で呉徳は、「一部の壁新聞やスローガンには、毛主席や党中央を攻撃しているものもあるが、大半は周首相追悼」と報告した。呉自身も「反革命」とは考えず、他の政治局員からもそうした発言はなかった。