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【トウ小平秘録】(85)第3部「文化大革命」 第1次天安門事件 (1/3ページ)
高い赤塀に囲まれた北京・中南海の居室で、毛沢東は1976年の春節(旧正月、1月31日)を迎えた。既に食事も一人ではできなくなり、これが最後の春節になると予感していた。
どの家庭でもにぎやかに餃子を包む大みそかの夜、毛沢東は一人静かにソファに横たわっている。妻の江青(こうせい)とは66年に別居し、娘2人も独立、訪れる人もいない。
遠くで爆竹の音がする。毛沢東は突然、身辺の服務員に言う。
「爆竹をやったらどうか。君たち若い人も春節を迎えないとな」
服務員たちが庭で爆竹に火を放つと、毛沢東は笑みを浮かべた、と当時の秘書、張玉鳳(ちょうぎょくほう)は回想している(「炎黄春秋」誌89年1月号)。
これが周恩来(しゅうおんらい)首相の死(1月8日)を祝ったとのうわさを生んだ。張玉鳳は、毛の目的は「服務員の慰労」だったとしているが、爆竹で悪鬼を追い払い新年を迎えようとしたのかもしれない。
この時期、毛沢東は最悪の精神状態にあった。周恩来の訃報(ふほう)を聞いた日、毛は一睡もしなかった。周の2週間前には、特務機関を握り、毛沢東を支えた副主席の康生(こうせい)も死去、毛自身も死期を意識していた。
75年の国慶節(建国記念日、10月1日)の午前には、ベッド上で「これが最後の『十一』(国慶節)だ」とつぶやき、「そんなことは…」という服務員に「死に神の前ではみな平等だ」と話している(中共中央文献研究室編「毛沢東伝」)。
毛沢東の最晩年の望みは、指導部が団結、文革を継続しつつ建設を進め安定を図る「安定団結」にあった。その望みを託したトウ小平(しょうへい)氏は、周恩来らと組んで文革に否定的な態度を取り、批判されると辞意を表明した。
おいの連絡員、毛遠新(もうえんしん)から報告を受けた毛沢東は1月21日、こう話す。
「トウ小平は人民内部の問題であり、うまく導き、対抗する方向にしないこと。彼の仕事は減らしても辞めさせてはならず、棍棒(こんぼう)でたたきのめしてはならない」