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【トウ小平秘録】(84)第3部「文化大革命」 周恩来の死 (1/3ページ)
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1976年1月8日、中華人民共和国の建国以来、26年余り首相を務めた周恩来(しゅうおんらい)が78歳で死去した。この13年後、胡耀邦(こようほう)の死が天安門事件(第2次)の引き金になったが、周の死も激動の1年の起点になった。
壮絶な闘病生活の末の死だった。「周恩来年譜」によると74年6月1日に入院して以来、大小の手術を13回受け、病院内で20回の会議を主催、病院外の会議にも20回出席し、63組の外国人訪問客と会見した。
「年譜」は、中央の責任者との会話を161回と記しているが、半数近くは、トウ小平(とうしょうへい)氏が相手だった。フランス留学時代以来、半世紀に及ぶ周恩来とトウ氏の関係が最も深まったのは、周が死の床に就いてからだったといえる。
周恩来が最後の大手術を受けた75年9月20日。手術に向かうストレッチャー上で、周はトウ氏を呼び、手を握って「この1年、実によくやった。君は私より有能だ」と力をこめて言った。そして手術室に入るとき叫ぶ。
「私は党に忠実だ! 人民に忠実だ! 投降派ではない!」
その場には、極左「四人組」の「軍師」である張春橋(ちょうしゅんきょう)もいた。周恩来を暗に「投降派」と攻撃する「水滸伝」批判の仕掛け人だ。毛沢東に屈従し、その妻、江青(こうせい)の無体な要求にも妥協してきた周の初めての反抗だった。
その時の手術で、医師団はがんが全身に広がり、手の施しようがないと告げる。トウ氏は医師団に「苦痛を減らし延命に努力せよ」と指示した。
それから間もなく、トウ小平氏は政治的危機に陥った。毛沢東は清華大学で始まった教育革命に関する論争で四人組を支持し、トウ氏を標的にした「右からの巻き返しの風に反撃する」運動が始まりつつあった。