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【トウ小平秘録】(69)第3部「文化大革命」 嵐の序章 (1/3ページ)

2007.7.3 08:05
このニュースのトピックストウ小平秘録

 1976年7月28日、中国の河北省東部の唐山をM7・8の地震が直撃、24万人を超える死者が出た。

 天変地異は凶兆との言い伝えがある。しかし、1カ月半もしないうちに毛沢東が死去、さらに1カ月後には江青(こうせい)ら極左「四人組」が逮捕され文化大革命が終結したので、吉兆だったと思った人も少なくなかった。

 その10年前の66年3月8日、河北省南部の★台(けいだい)でM7・6の地震が発生、約1万人が犠牲になった。2カ月後、文革開始が宣言された。多くの中国人にとってこちらは間違いなく凶兆だった。

 ★台地震では30以上の人民公社が壊滅的被害を受けた。周恩来(しゅうおんらい)首相(肩書は当時、以下同)は翌日現地入り。政府・軍が救助・救援活動に全力を挙げていた3月中旬、杭州にいる毛沢東から招集がかかる。「18日から政治局常務委拡大会議を杭州で開く」

 地震対策ではない。毛沢東の頭を占めていたのは、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席の「ブルジョア司令部」をどう倒すかの戦術であり、当面の照準は彭真(ほうしん)北京市長に定められていた。

 前年11月に北京市副市長の呉●(ごがん)の戯曲「海瑞(かいずい)免官」が反社会主義の毒草だと批判された後、呉●を擁護した彭真への圧力が高まった。

 彭真は66年2月、自分が組長の「文化革命五人小組」を招集、呉●作品を「学術問題として批判する」方針(「2月テーゼ」)をまとめ、圧力をかわそうとした。

 周恩来は毛沢東の不満を知っていた。2月テーゼに対し、江青らは内部で批判していたからだ。しかし毛沢東はこの会議では学術界、教育界の「ブルジョア支配」を指摘しただけだった。

 会議に出席した彭真はほっとするが、後に「自己批判していればよかった」と悔いる。

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