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【トウ小平秘録】(68)第3部「文化大革命」 林彪の台頭 

2007.7.1 08:32
このニュースのトピックストウ小平秘録

 歴史学者の呉●(ごがん)北京市副市長(肩書は当時、以下同)の戯曲「海瑞(かいずい)免官」が、1959年に「大躍進」運動を批判し国防相を解任された彭徳懐(ほうとくかい)の復権を狙った「毒草」とされ、文化大革命の口火になったことは既に書いた。その事件には、もう一つ重要な意味があった。国防相兼中央軍事委副主席の後任に就いた林彪(りんぴょう)の台頭だ。

 林彪は71年に国外逃亡途中墜死したが、それまでは、毛沢東の忠僕として知られた。毛が朝鮮戦争(50〜53年)の中国義勇軍初代総司令官に林彪を指名したのも信頼の表れだった。が、林彪は就任を拒否、冷遇される。

 林に代わり朝鮮半島に出軍したのが彭徳懐だった。米軍の圧倒的戦力を体験した彭徳懐は、ソ連の支援で装備近代化を急ぐよう主張する。それに対し、林彪は人民戦争論を唱え、毛沢東の信頼を回復、「毛主席の親密な戦友、後継者」の地位にひた走った。

 その重要な契機は62年2月の全国代表者会議(七千人大会)だった。劉少奇(りゅうしょうき)国家主席、トウ小平(しょうへい)総書記主導で、毛沢東の大躍進運動を中断、経済調整への転換を決めた会議で、毛沢東も、大躍進の欠陥を認め、「責任は私にある」と“自己批判”した。

 数千万の餓死者を出した後であり、生産回復が急務だった。会議の参加者が調整策を支持する中で、異色の演説をしたのが林彪だ。

 「総路線・大躍進・人民公社の3本の赤旗は正しく、現実を反映している。では現在の困難はどこから生じたのか。それは毛主席の指示通りにしなかった結果だ。毛主席の指導は過去も現在も正しい」

 これを聞いた毛沢東は非常に喜び「林彪同志の発言はすばらしい」と絶賛、大会の空気が変わった。大会最終日に周恩来(しゅうおんらい)首相は毛沢東演説を支持するとともに、林彪演説を支持、称賛したが、トウ小平氏は林彪演説への態度表明をしなかった。

 ≪林彪の側近だった呉法憲(ごほうけん)空軍政治委員(65年に空軍司令官)の回顧録(香港北星出版社)による≫

 林彪は国防相に就任するや、軍内で毛沢東思想の学習を呼びかけ、61年から軍機関紙「解放軍報」に毎日、毛の言葉を掲載させ、64年には「毛主席語録」にまとめた。文革開始後、全国民の「バイブル」になる。

 毛沢東の信頼をバックに林彪は、軍を直系の部下で固めだした。その中で、羅瑞卿(らずいけい)総参謀長の失脚事件が起こる。

 65年12月、毛沢東は突然、上海で緊急会議を開いた。党と軍の指導者が集まったが、会議の名目も議題も事前には知らされなかった。知っていたのは、毛沢東と林彪および夫人の葉群(ようぐん)らごく少数だ。呉法憲も知っていた一人だ。

 呉法憲は11月末、蘇州にいた葉群から呼び出され「秘密の話」を聞く。呉の回顧録によると、葉群は、杭州の毛沢東を訪ね、羅瑞卿に関する林彪の意見を伝えてきたばかりだった。

 意見とは(1)政治突出(政治第一主義)に反対、軍事も重要と折衷主義をとった(2)長期にわたり重要問題で相談も報告もない(3)勝手に軍事演習をやった−などだったが、ほとんどが「ためにする捏造(ねつぞう)」といわれている。

 羅瑞卿は、彭徳懐事件に連座、失脚した黄克誠(こうこくせい)総参謀長の後任で、当時、関係の良かった林彪が指名した。呉法憲はこう書く。

 「軍の実権は、軍事委員会にあり、その秘書長を兼任した羅瑞卿は、病気がちの林彪に代わって軍務を取り仕切ることが多かった。2人の関係がここまで悪化したのを知り驚いた」

 林彪は、葉群に弱く、そのいいなりになったことが林彪事件の要因の一つだった。夫をバックにした政治的野心では江青(こうせい)にひけをとらなかった。この件も葉群の影響が強かったと呉法憲はみる。

 毛沢東は12月2日、「政治突出を信じず、折衷主義を唱える者がいる。警戒せよ」と指示、緊急会議を招集した。呉法憲や陳丕顕(ちんひけん)上海市党委第1書記は回顧録(上海人民出版社)で、羅瑞卿批判への疑問を持ちながら、賛成する指導者たちを描く。毛沢東の決定がすべてだった。

 トウ小平氏は羅瑞卿とは家族ぐるみの付き合いで、羅に同情するが、翌春、彼を反革命陰謀で党から追放する会議を主催させられる。

 羅瑞卿失脚後、林彪直系の楊成武(ようせいぶ)副総参謀長が総参謀長代行に就任した。彼も彭徳懐事件後に副総参謀長に抜擢(ばってき)され、林彪のところに頻繁に出入りしたという。

 羅瑞卿事件は、党軍長老の疑問を招き、林彪への警戒心を募らせた。しかし既に文革発動を決意していた毛沢東は、それに必要な軍の支援を林彪に頼るほかなかった。江青、林彪という評判の芳しくない文武の野心家を頼りに毛沢東は文革に突入した。(伊藤正)

                 ◇

 ■人民戦争論 人民解放軍の伝統的な基本戦略で、敵の優秀な兵器に対抗するため、敵を深く引き込み、ゲリラ戦で殲滅(せんめつ)する戦法。1920年代に毛沢東がゲリラ戦の基本として打ち出した。朝鮮戦争後、彭徳懐はソ連に学んで装備の近代化と軍の正規化を主張、58年には劉伯承元帥らも同調したが、林彪は人民戦争論を主張する先頭に立った。80年代以降、国防力の強化に伴い、人民戦争論は時代遅れとの主張も出たが、基本戦略論としては現在も否定されていない。

 ●=日へんに含

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