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【トウ小平秘録】(64)第3部「文化大革命」 「海瑞免官」
文化大革命は、1966年8月の8期中央委員会第11回総会(11中総会)で発動が決定されたが、実質的には同年5月16日の政治局拡大会議で採択された「中央委員会通知」(5・16通知)で始まった−が定説だ。
しかし毛沢東は67年2月、アルバニアの代表団との会見で、65年11月10日付の上海紙「文匯報」に発表された姚文元(ようぶんげん)(後の文革派4人組の1人)論文で「文革が開始されたというべきだ」と話した。
この論文は「新編歴史劇『海瑞(かいずい)免官』を評す」と題され、歴史学者の呉●(ごがん)北京市副市長(肩書は当時、以下同)が59年末に発表した京劇台本「海瑞免官」を反社会主義の毒草と決めつけた。明代の清廉な官僚で、汚職高官の誣告(ぶこく)によって左遷された海瑞をモデルにした戯曲である。
毛沢東は、新中国発足後、絶え間なく「修正主義との闘争」が続き、マルクス・レーニン主義の勝利のために文革を発動したと説明。その準備が必要だった、と姚文元論文について話した。
「当時、わが国の一部部門と一部の地方は修正主義者に握られていた。(北京は彼らが牛耳り)針一本、水一滴通さなかったので、江青(こうせい)同志に『海瑞免官』を批判する文章を書くのを(上海で)組織するよう命じ、完成後、私が3度目を通してから発表させた」
毛沢東が「海瑞免官」批判を文革の口火にしたのは意味があった。彼は同年12月21日、こう話している。
「(呉●作品の)核心は『免官』にある。われわれは59年に彭徳懐(ほうとくかい)(国防相)を解任した。彭徳懐も海瑞だ」
彭徳懐は59年夏、江西省廬山(ろざん)で開かれた政治局拡大会議(廬山会議)で、毛沢東が58年に発動した大躍進運動(農工業の大増産運動)が農村の疲弊と物資の浪費を招いていると批判、毛の怒りを買い、解任された。呉●はそれを戯曲にかこつけて批判した、と毛は主張したのだ。
これは「口火」にすぎなかった。毛沢東の究極の標的は、彭徳懐事件後、第一線から退いた毛に代わって指導権を握った劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とその右腕のトウ小平(しょうへい)総書記だった。
トウ氏が毛沢東の意図を知るのは、しばらく後のことだ。トウ氏の三女トウ榕(よう)氏は著書「我的父親トウ小平『文革』歳月」で、トウ氏が呉●批判に強く反対、呉●が心理的重圧を受けていると知ると、次のように話したと書いている。
「馬連良(ばれんりょう)(京劇俳優)が演じた海瑞劇を見たが、誤りなんて何もない。他人のことなど知らないくせに、人の弱みをつかんで長々と批判して出世しようとする輩(やから)がいる。私が一番軽蔑(けいべつ)するのはこの種の人間だ」
呉●はトウ氏のブリッジ仲間だった。トウ氏は呉●を招き、いつも通りブリッジをして言う。
「教授(呉●は元清華大学教授)、くよくよしなさんな。天が落ちてくるわけじゃない。私は革命に参加してから今日まで、何度も困難で危険な目に遭ったが、その都度切り抜けてきた。その経験から第一に恐れず、第二に楽観的であることが大事ですよ」
トウ氏はさらに「私たちが後押しするから安心しなさい」と元気づけている。後押しどころか、トウ氏自身が打倒されてしまうとは、夢想だにしていなかった。
それは、毛沢東が黒幕と知らず、上海の無名の評論家が書いた学術論文にすぎないと高をくくっていたためだ。トウ榕氏の著書によると、トウ氏は当時こう話していた。
「政治と学術は絶対に分けねばならない。ごっちゃまぜにするのは、この上なく危険だ。(上部に)意見をいう道をふさいでしまうからね」
トウ氏は中央の日常業務をつかさどる中央書記処のトップだった。にもかかわらず、論文に強力な黒幕がいるのを知らなかった。毛沢東は先のアルバニア代表団会見で話している。
「江青は完成した論文を私に見せた際、周恩来(しゅうおんらい)(首相)と康生(こうせい)(中央書記処書記)には見せるなと言った。劉少奇とトウ小平らも読むことになるから、と」
その結果、姚文元論文は、北京の新聞が転載しなかった。北京市党第一書記兼市長の彭真(ほうしん)は、トウ氏と同様、呉●の作品には問題はなく、それを批判した論文を市党委員会機関紙「北京日報」に掲載する必要はないと考えていた。
が、北京日報、軍機関紙「解放軍報」は11月29日、論文を掲載する。内情を察知した周恩来が彭真らを説得したという。党機関紙「人民日報」も翌日掲載した。この問題は後に、トウ氏らの「罪状」にされる。
今日、明らかになった事情からみると、毛沢東の周到な計略に比べ、トウ小平氏らは不可解なほど無防備だった。姚文元論文のはるか前から、毛沢東は奪権闘争を示唆していたにもかかわらず。(伊藤正)
【用語解説】5・16通知
政治局常務委員会直属の文革指導機関である中央文革小組を設置、党、政府、軍と文化界などの「ブルジョア階級の代表的人物」や「フルシチョフのような修正主義分子」を批判、更迭することを呼びかけた、文革の綱領的文書。中央文革小組組長の陳伯達と顧問の康生が起草、毛沢東が7回手を加えたといわれる。しかし教育界などはほとんど動かず、文革は66年8月の8期11中総会の正式決定を経て、全面的に展開された。
●=日へんに含