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【トウ小平秘録】(63)第3部「文化大革命」 「皇帝」のきずな
≪1966年から10年間続いた文化大革命は、トウ小平(しょうへい)氏にとっては(1)66年5月の文革開始から69年10月の江西省下放まで(2)以後73年2月までの下放時代(3)副首相として復活した73年3月から76年10月の文革終結まで−のそれぞれ3年数カ月の3時期に分かれる。本企画第3部はここまで、(2)の下放時代と、トウ氏が復活し文革派と闘う直前までを書いた。今回からは、(1)の文革初期に戻り、トウ氏と毛沢東=文革との関係を中心に探る≫
「文化大革命は指導者らが誤って引き起こし、それが反革命集団に利用され、党と国家、各民族人民に巨大な災難をもたらした内乱だった。その主要な責任は毛沢東同志にある」
81年に採択された歴史決議は、文革を発動した毛沢東に厳しい判断を下した。しかし、毛沢東に対する総合評価は「中国革命における功績は、過ちをはるかに上回る」と「功績第一」になった。
歴史決議作成を指示、指導したトウ小平氏の意見が強く反映した、と関係者は証言する。そのわけはトウ氏の三女、●榕(とうよう)氏の「我的父親トウ小平『文革』歳月」が説明している。
「文革中に不当な仕打ちを受け、悔しい思いをしたにもかかわらず、父は心の中で毛沢東を尊敬していた。毛沢東に対する彼の感情は、内心から出た純朴なものだった」
トウ氏は後年、「毛沢東がいなければ、共産党も新中国もなかった」と何度か話している。トウ氏の毛沢東への「崇拝」を示す秘話がある。
70年夏の廬山(ろざん)会議(党9期2中総会)で、国家主席問題をめぐり毛沢東と林彪(りんぴょう)副主席(肩書は当時、以下同)が対立、林彪事件(71年9月)の発端になったことは既に書いた。
総会に先立つグループ討議で、林彪支持の論陣を張った陳伯達(ちんはくたつ)政治局常務委員に対し、張春橋(ちょうしゅんきょう)は、陳が持ち出した「毛沢東天才論」を主観主義と攻撃した。
「天才論」とは、「毛沢東語録」再版の前書きにある「毛沢東主席は天才的、創造的、全面的にマルクス・レーニン主義を継承、保衛し、発展させた」に由来する。前書きの筆者は林彪で、張春橋の攻撃は波紋を呼ぶ。
林彪側近の呉法憲(ごほうけん)空軍司令官は周恩来首相に相談する。
呉「張春橋によると、フルシチョフも『天才的、創造的にマルクス・レーニン主義を発展させた』とされた、と毛主席が話したことがあるというんです」
周「張春橋はそう言ったのか。毛主席はそんな話はしたことはないし、聞いたこともない。そもそも、その3つの副詞を提起したのは、林彪ではなくトウ小平なのだ」
周恩来によると、中央書記処会議で、総書記のトウ氏が言い出したという。文革発動を正式決定した66年8月の党中央委総会(8期11中総会)の直前とみられる。なぜならこの表現は、書記処起草の総会コミュニケで初めて使われたからだ。
≪以上は呉法憲の「回憶録」(香港北星出版社)による≫
既に紅衛兵運動が拡大、彭真(ほうしん)北京市長らトウ氏の「同志」への批判が公然化していた。トウ氏は、毛沢東の意図を察知し、毛を賛美することで予防線を張ったのだろうが、本心でもあった。
文革初期にトウ小平氏は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席とともに「党内最大の走資派(資本主義の道を歩む実権派)」とされ失脚した。しかし劉氏と違い、党除名にならなかったし、批判闘争大会に引っぱり出され紅衛兵の虐待を受けたこともなかった。
毛沢東は「トウ小平は、劉少奇とは区別しなければならない」と言い続け、いずれ復活させる考えだった〔王力著「王力反思録」(香港北星出版社)など多数の証言あり〕。
トウ氏が尊敬するもう1人の人物は周恩来だった。周は失脚しなかったが猜疑(さいぎ)心と嫉妬(しっと)心の強い毛沢東の下で自尊心を傷つけられ、ぼろぼろになっていく。
周恩来の侍医だった張佐良(ちょうさりょう)氏によると、75年夏、周恩来が入院中の軍病院で、李先念副首相らを交え、身辺の人たちと記念撮影をしたとき、周がこう叫んだという(「周恩来的最後十年」上海人民出版社)。
「これが君たちとの最後の写真だ。将来、私の顔に『×』をつけないよう希望する」
「×」は反革命分子の印だ。それが、紅衛兵とともに「毛沢東語録」を高く掲げ、「毛主席万歳」と連呼、江青(こうせい)の面罵(めんば)にも耐え、毛沢東の忠僕であり続けた周恩来の、死を間近にした叫びだった。
失脚した後も、トウ小平氏は「楽観的で希望を失わなかった」(●榕氏)。毛沢東への尊敬を失わず、毛もそれを知っていたことによる。
毛沢東とトウ小平−現代中国2人の「皇帝」のきずなと葛藤(かっとう)が織りなした文革に今日の中国の原点がある。(伊藤正)
【用語解説】歴史決議
正式には「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」。1981年6月の党11期中央委員会第6回総会(6中総会)で採択された。毛沢東死去後、毛路線継承を主張する文革支持派と近代化を主張する改革派が対立する中で、毛について歴史的評価を定め、近代化の教訓にすることを目的に約2年間の作業で作成された。文革以外に57年の反右派闘争、58年の大躍進運動、59年の彭徳懐国防相解任が毛の過ちとされている。
●=登におおざと