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【トウ小平秘録】(61)第3部「文化大革命」 一触即発
トウ小平(しょうへい)氏が北京の中南海(要人の居住区)に監禁されていた1969年3月、中国黒竜江省とソ連(当時)沿海州との境をなすウスリー川のダマンスキー島(中国名・珍宝島)で、中ソ国境警備隊間の大規模な武力衝突が発生した。中ソ関係は、一触即発の危険水域に入った。
毛沢東はソ連の核攻撃に備え、全国の都市に地下壕(ごう)を掘り、食糧の備蓄を指令、林彪(りんぴょう)国防相(肩書は当時、以下同)はソ連の急襲を想定した作戦を立てる。
69年9月、北京空港で行われた周恩来(しゅうおんらい)、コスイギン両首相会談で、10月に国境交渉を再開することが決まるが、中国は、その前後にソ連が中国の核施設を攻撃するとの「情報」をつかむ。
林彪は10月15日、政治局会議を招集し、戦備態勢強化を決定、会議に欠席した毛沢東の指示が周恩来から伝えられる。
「中央指導者が北京に集中しているのはよくない。一個の原爆で多数が死ぬ。分散すべきであり、一部老同志も外地に移した方がいい」
翌16日、毛沢東は武漢、林彪は蘇州へそれぞれ移動、北京に残った周恩来らも西北部の西山にある軍施設に引っ越した。トウ小平氏の江西省への下放も、毛沢東の疎開指示によるものだった。
毛沢東は16日、武漢に着いた後、周恩来に電話で「ありがとう。これで安心だ。さらに警戒心を高めよ」と伝えた。
林彪は同日、蘇州から戦闘準備の「第1号命令」を全軍に発したが、これが後に問題になる。
《以上は、林彪側近の呉法憲空軍司令官の「回憶録」(香港北星出版社)などによる》
「情報」は誤りで何事も起こらなかったが、この集団疎開事件で林彪が全軍を指揮したことに、毛沢東は警戒心を抱いた。林彪事件後に「罪状」にされた、クーデターの予行演習との疑いだ。
この後、毛沢東はソ連の脅威に対抗するため、「敵の敵」米国と手を結び、西側諸国との関係を正常化、経済再建を図る戦略に転じる。72年のニクソン訪中や日中正常化はその象徴だ。
この戦略に必要なのは、外交手腕や行政能力にたけた実務家であり、軍人ではなかった。70年夏の廬山会議以前に、毛沢東は林彪を後継者にしたことを悔い、排除を決意したと、ある歴史研究者は分析、こう話す。
「その意味では71年9月の林彪事件は、望み通りのはずだったが、毛沢東は打撃を受けた。林彪は輝かしい軍歴を持ち、半世紀近く、毛に仕えた忠実な部下だった。毛に不満を持つ軍人は多く、『第2の林彪』の出現を毛は恐れたと思う」
軍の再建が急務だった。林彪の影響力を組織上も思想上も払拭(ふっしょく)し、「毛沢東の軍」につくり直さねばならない。軍歴、組織統率力などでトウ小平氏を上回る適任者はいなかった。解放後は行政面で能力を発揮してきたトウ氏は、病気の周恩来首相に代わり得る人材でもあった。
≪「私は軍人です」≫
トウ小平(しょうへい)氏は復活した1年余り後の1974年夏、日本人訪中記者団との会見で、開口一番そう話した、と会見に参加した産経新聞元北京支局長の菅栄一氏は、訳書「トウ小平=その政治的伝記」(三一書房)の後書きに記している。
ずっと後年、89年の天安門事件で、軍内の動揺と分裂を押さえ、学生・市民を武力鎮圧し得たのも「軍人トウ小平」あったればこそだった。トウ氏は90年の完全引退まで中央軍事委主席のポストを維持、軍を支配し続けた。
馮治軍(ふうちぐん)著の「トウ小平與毛沢東」(香港・皇福図書)によると、49年の解放まで、トウ小平、林彪(りんぴょう)両氏は毛沢東の知遇を得、若くして要職に就き、戦功と出世を競ってきたライバルだった。
解放後も両者のライバル関係は続く。政治局員に就任したのは同時(55年)だったが、56年にトウ氏は中央の政策を取り仕切る総書記に就任。一方、林彪は59年の彭徳懐(ほうとくかい)国防相解任事件で活躍して以来、毛沢東の右腕になり、「後継者」の地位を確保、飛ぶ鳥を落とす勢いになった。
69年4月の第9回党大会で選出された中央委員、同候補計279人中、軍人は121人、うち林彪系は31人で最多。21人の政治局員中、林彪、葉群(ようぐん)夫人のほかに黄永勝(こうえいしょう)総参謀長ら4人の軍首脳が林彪直系だった(いずれも林彪事件で失脚)。
毛沢東は林彪事件後の難局を乗り切るのにトウ小平氏に期待したが、じつは文革初期にトウ氏が失脚したときからトウ氏の能力を買い、いずれ再起用しようと考えていた、と中央文革小組の一員だった左派論客の王力(おうりき)氏は証言する。
王氏は67年7月14日、武漢で毛沢東からこう聞かされたという(「王力反思録」(香港北星出版社)。
「トウ小平は、『文』(政務)では劉少奇、周恩来(しゅうおんらい)に、『武』(軍務)では林彪、彭徳懐に劣らない。2つの野戦軍を指揮したのは小平しかいない。林彪の体がだめになったら、小平にやってもらうつもりだ。彼は性急な欠点はあるが、決断は速く、人も使える」
毛沢東がトウ氏の能力を評価した言葉はほかにも少なくない。かくてトウ氏の復活は時間の問題になったが、前途には困難が待ち受けていた。(伊藤正、矢板明夫)
【中国建国までのトウ小平氏の主な軍歴】
1929年 広西・百色で農民、労働者の蜂起を指導し、中国労農紅軍第7、8軍を創設
31年 紅軍第1軍団政治部主任に就任
38年 紅軍が八路軍に改編され、第129師団政治委員に就任。師団長は劉伯承氏
40年 日本軍との「百団大戦」を指揮(注)
45年 国民党との内戦の緒戦となる「上党戦役」に勝利
47年 大別山地区に進撃し広大な根拠地を建設
48年 内戦の三大戦役の一つ「淮海戦役」を遂行、国民党軍55万人を壊滅させた
49年 解放軍第2野戦軍政治委員に就任。南京を解放する「渡江戦役」を指揮
(注)八路軍の約100の団(連隊に相当)が参加した大規模な対日反撃作戦。
【用語解説】中ソ武力衝突
1969年3月、中ソ国境のダマンスキー島(珍宝島)で2度にわたり発生した国境警備部隊同士の武力衝突事件。3月2日の最初の衝突は、係争中の国境線付近を巡邏(じゅんら)していた中国兵をソ連側が装甲車で包囲して発砲、約1時間交戦。同15日にはソ連側は戦車も動員、砲撃戦になり、9時間に及ぶ戦闘で、双方に多数の死傷者が出た。50年代末に中ソ関係が悪化、国境紛争が頻発したが、本格的な交戦は初めてだった。
【用語解説】中央文革小組
毛沢東が、発動した文化大革命を指導するため、1966年5月に設置した臨時の権力機構で、江青夫人ら極左グループで構成された。文革初期、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席ら指導者が次々と失脚し、党中央が機能停止に陥った後、実質的な最高権力機関となった。紅衛兵運動をあおり古参幹部を迫害するなど破壊活動の司令部化、内部の主導権争いも激しく、主要メンバーが相次いで失脚した。69年4月の第9回共産党大会後、事実上、解散した。

