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【トウ小平秘録】(60)第3部「文化大革命」 戦友の反逆
1971年9月、林彪(りんぴょう)党副主席兼国防相(肩書は当時、以下同)が、国外逃亡の途中墜死したとされる事件は、江西省での下放生活を余儀なくされていたトウ小平(しょうへい)氏に復活の希望をもたらした。しかし、毛沢東からの反応は、すぐにはなかった。
毛沢東の死(76年)まで22年間、毛の侍医を務めた李志綏(りしすい)氏(故人)は著書「毛沢東私人医生回憶録」(台湾・時報出版)で、事件前から林彪の反撃を恐れ、体調を崩していた毛沢東の「異状」を描いている。
「(林彪事件は)毛沢東に巨大な精神的打撃を与えた。林彪の配下らが逮捕され、身が安全になった後も、一日中ベッドに横たわり、憂鬱(ゆううつ)な表情をしていた。言葉少なになり、生気を失い、一気に老いが進んだ」
毛沢東自らの革命理論をかけた文化大革命を支え、毛沢東自らが後継者にした「親密な戦友」の「反逆」だった。文革への疑問は避けられない。毛は動揺し、トウ小平氏のことを考える余裕はなかった。
林彪事件の発端は、1年前の70年8月、江西省の景勝地、廬山で開かれた党9期中央委員会第2回総会(廬山会議)だった。69年4月の第9回党大会で、文革に区切りをつけた後、全国人民代表大会(全人代=国会に相当)を開き憲法を改正、秩序を回復することが議題だった。
そこで、劉少奇(りゅうしょうき)氏失脚で空位になった国家主席存廃をめぐり、存続論の林彪と、廃止論の毛沢東(党主席)が対立。毛は、林彪を支持した陳伯達(ちんはくたつ)政治局常務委員や呉法憲(ごほうけん)空軍司令官(政治局員)ら林直系の軍首脳を攻撃した。
毛沢東は林彪の野心を疑い、追い詰めていく。
71年夏、毛が南方各地を視察し林を直接批判したのを知った林は、クーデターを画策したが失敗、夫人の葉群(ようぐん)政治局員や息子の林立果(りんりつか)空軍作戦部副部長らとソ連へ逃亡を図る途中、モンゴル領内で事故死した−。
こうした当局側発表のあらすじには疑問も多い。事件に連座、後に懲役17年の判決を受けた呉法憲氏(故人)も、昨年香港で刊行した回想録で、毛沢東が江青(こうせい)夫人らと結び、林彪排除を画策したとの「真相」を詳述している。それは改めて書く。
廬山会議の時点に戻る。廬山の約100キロ南の南昌郊外の下放先で会議開催のニュースを聞いたトウ小平氏は、中央弁公庁の汪東興(おうとうこう)主任あての手紙で会議への「態度表明」をした、と三女のトウ榕(よう)氏は著書「我的父親トウ小平」に書いている。
彼女が内容に触れていないのは、不都合な部分があったからだろう。トウ氏は66年10月の最初の自己批判以来、「林彪同志は学習の手本」と賛美してきた。廬山会議の展開を知らなかったトウ氏は、このときの手紙でも林彪支持を表明したに違いない。
トウ氏は71年11月に林彪事件を知った後の手紙では、林彪への激しい非難と怒りを書いた。林彪へのかつての賛辞も、一転した非難も、毛沢東にへつらい、復活を果たす執念にほかならなかった。
≪「復活」が近づいた≫
毛沢東の侍医だった李志綏(りしすい)氏の著書によると、毛は林彪(りんぴょう)事件後、鬱屈(うっくつ)した日を送る中で、文革中に林彪に反対した多くの老幹部を迫害、死に追いやったことを悔い、老幹部の復活を図ろうと考えだしたという。
1972年1月10日、北京郊外の八宝山革命公墓で催された陳毅(ちんき)外相(元帥)の葬儀に、毛沢東が突然参列する予定外の行動に出たのはその表れだった。陳氏は67年2月、北京の中南海(要人居住区)・懐仁堂で開かれた軍幹部らの会合に参加、林彪らの極左路線を批判した「2月逆流」の首謀者としてつるし上げられた。
部屋着にオーバーを羽織って葬儀会場に現れた毛沢東は、涙を浮かべて「陳毅はいい同志だった」と遺族に話したという。
毛沢東はこの後、周恩来(しゅうおんらい)首相に失脚幹部の復活工作を指示し、次々に老幹部が戻ってくる。しかしトウ小平氏にお呼びはかからなかった。
「毛沢東は、父の能力の高さを買っていたが、同時に文革を否定してしまうのではとの不安も持っていた」と三女、トウ榕(よう)氏は著書に書いている。慎重な周恩来は、毛沢東の指示なしにトウ氏を復活リストに載せることはなかった。
72年8月3日、トウ小平氏は熟慮の末、毛沢東に再び手紙を書く。内容は71年11月の最初の手紙と同じく、林彪批判を繰り返し、復活を請願した(楊継縄著「トウ小平時代」中央編訳出版社)。
毛沢東も今度は無視せず8月14日、「トウ小平同志の誤りは重大だが、劉少奇(前国家主席)とは区別すべきだ」との指示を書いた。その理由を3点挙げている。
第1は、30年代の中央ソビエト区時代、トウ氏が毛沢東派として粛清された一人だったこと。このトウ氏の第1次失脚は、毛沢東の権力掌握後、トウ氏を重用する原点になる。
第2は、トウ氏に敵への投降などの歴史問題がないこと。第3は解放前の戦功に加え、解放後も「ソ連修正主義」との交渉など多くの仕事をしたことだ。
毛沢東は「以上は過去何度も話したが、改めて言う」と指示を結んだ。「トウ小平復活」の準備を命じたに等しかった。
このころ、政務を取り仕切ってきた周首相ががんになり、代わりの人材を必要とした、というのが一般的な見方だが、それだけではなかった。林彪後の軍を整頓、指揮できる人物はトウ小平氏以外にいなかったのだ。(伊藤正、矢板明夫)
【用語解説】第1次失脚
1933年5月、江西省瑞金県書記だったトウ小平氏は、コミンテルン(世界各国の共産党の国際組織)に忠実なソ連留学組から「毛沢東派」として批判され、毛の弟・毛沢覃氏らとともに初めての失脚を経験した。農村部でのゲリラ戦を主張する毛沢東派に対し、国民党との正面作戦を主張するソ連派が党内の主導権を握った結果だった。トウ氏は全職務を解任され、妻・金維映氏とも離婚。強制労働を経て翌年末、周恩来氏らの尽力で党中央秘書長として復活した。




