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【トウ小平秘録】(59)第3部「文化大革命」 家族の絆
文化大革命(文革)さなかの1969年10月、江西省南昌市郊外の新建県に下放されたトウ小平(しょうへい)氏は、徐々にトラクター修理工場での労働に慣れ、職場の人たちとも言葉を交わすようになった。特に直属の「上司」だった修理作業班の主任、陶瑞縉(とうずいしん)氏とは、家族の話もしたという。
「老トウは大変な家族思いで、子供たちのことを気にかけていた。とりわけ長男のトウ樸方(ぼくほう)氏のことを心配していた」
2男3女のうち、上山下郷運動に呼応して、二男のトウ質方(しつほう)氏は山西省、三女のトウ榕(よう)氏は陝西省の農村にそれぞれ下放、大学生だった他の3人は北京に残っていた。
この3人とも造反派の迫害を受けたが、とりわけ北京大生のトウ樸方氏は68年10月、厳しい迫害から逃れようと校舎4階から飛び降り自殺を図り、下半身不随の重傷を負った。
トウ小平夫妻が江西省に下放されたとき、樸方氏は北京の軍301病院に入院中だった。卓琳(たくりん)夫人は北京出発前、病院を訪れて2年ぶりにわが子と対面したが、「声上げて泣いた」という(トウ榕著「我的父親トウ小平 『文革』歳月」)。
卓琳夫人の要求が認められ、69年12月にトウ榕氏が江西省の「実家」に里帰りした。そこで夫妻は文革での子供たちの受難を詳しく知る。長女のトウ林(りん)氏が中央美術学院の「牛小屋」と呼ばれる部屋に監禁され、校内の便所掃除をやらされたことなどだ。
やがて他の子供たちも次々に里帰りしたが、トウ小平氏が何より気にかけていたのは樸方氏のことだった。トウ氏は中央弁公庁の汪東興(おうとうこう)主任に手紙を書き、樸方氏の引き取りを申請、71年6月、車いすに乗った長男が新建県にやってきた。
トウ榕氏の著書や関係者の証言によると、トウ小平氏は毎日、樸方氏の体をふくなど介護に献身する。大柄の樸方氏を動かすのは大変だった。それを知った職場の人たちは、1人で寝起きができる木製の特殊ベッドを作り、トウ氏に感謝されたと陶瑞縉氏は話した。
しばらくして、陶氏はトウ氏から相談を受ける。
「息子が毎日やることがなく、寂しがっている。彼はラジオの修理ができるので、斡旋(あっせん)してもらえないだろうか」
工場の職工たちは貧しく、どの家庭にもラジオがなかった。
「そう話すと、老トウはひどく落胆して仕方ないという表情をし、またにしようと言った」(陶氏)
トウ氏は、文革中の家族の受難も、解放後20年余を経てラジオも買えない労働者の貧困も語ったことはないが、彼の心から離れることはなかったろう。それは後年、文革を否定し、経済建設に執念を燃やす原点だった。
下放2年後の71年秋、トウ氏に光がさす。林彪事件だ。
≪林彪の死は道理だ≫
家族思いのトウ小平氏だが、とりわけ1969年から3年間の下放時代、一家は肩を寄せ合うように暮らした。
三女のトウ榕氏は著書「我的父親トウ小平 『文革』歳月」に、ラジオをいじり、ラジオを聴くのが、下半身不随の長兄、トウ樸方氏の趣味だった、と書いている。
71年9月後半のある日、樸方氏は短波放送で、同月13日にモンゴルで中国機が墜落したとの外国放送を耳にした。
10月1日の国慶節恒例のパレードが中止され、一連の報道に「毛主席の親密な後継者」林彪(りんぴょう)国防相(肩書は当時)の名が出てこないことに樸方氏は気付く。何らかの異変発生を示唆していたがトウ小平氏は息子の話を聞くだけだったという。
林彪国防相がクーデターに失敗、ソ連へ逃亡の途中、墜死したとされる「林彪事件」をトウ小平氏が知ったのは、11月6日だった。その日、トラクター修理工場指導部は事件に関する中央文書を従業員に伝達、トウ夫妻も聞いた。
トウ榕氏は「我的父親トウ小平」の中で、トウ夫妻が昼すぎに帰宅し、事件を知った後の一家の興奮ぶりを活写している。トウ氏自身はずっと無言だったが、夕食時に一言発した。
「林彪が死ななければ、天理は許さない!」
それはトウ氏にとって復活のチャンスでもあった。トウ氏は2日後、毛沢東に手紙を書く。
その中でトウ氏は、林彪グループの犯罪行為を怒り、「毛主席と中央の英明な指導で速やかに問題が解決した」ことを支持、「大きな喜びを味わっています」と述べた。
トウ氏には珍しく感情的な文面だったが、こう書くのも忘れなかった。
「いつの日か党のために仕事ができるよう望んでいます。体は健康で、あと数年は働けます。懸命に働く中で、万分の一でも過ちを償うことのできる機会を得たいと思っています」
トウ榕氏は「このような時期ならば、毛沢東は自分の要求を考慮してくれるに違いない、と父は確信していた」と解釈している。
トウ氏の希望はすぐにはかなえられなかった。毛沢東は、林彪事件後、江青(こうせい)女史ら4人組に文革路線を委ね、トウ氏の再起用には慎重だった。しかしトウ氏を使わねばならない事情がほどなく起こる。
(伊藤正、矢板明夫)
【用語解説】上山下郷運動
都市部の中・高校生や卒業生(知識青年)が農山村に定住、労働を通じて革命意識を高める運動。1956年から始まったが、68年12月に人民日報が、知識青年に農村行きを呼びかける毛沢東の指示を掲載、空前の上山下郷運動が起こり、78年に中止されるまでの10年間に1600万人超が農村に移住した。紅衛兵組織の解消、都市部の就業難対策の狙いもあった。多くの問題が生じたが、民主運動や各界の指導者には経験者が少なくない。



