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【トウ小平秘録】(58)第3部「文化大革命」 下放労働

2007.6.20 07:33
このニュースのトピックストウ小平秘録

 ■「紅衛兵はいないのか」

 毛沢東が1966年に発動した文化大革命(文革)。トウ小平(しょうへい)氏は劉少奇(りゅうしょうき)国家主席(肩書は当時、以下同)に次ぐ「走資派(資本主義の道を歩む実権派)ナンバー2」として失脚し、69年から3年余、中国南部の江西省に下放される。

 「トウ小平秘録」シリーズは、中国現代史の大きな節目であった「天安門事件」(89年6月)を第1部で取り上げ、最高実力者のトウ氏が改革・開放を胸に秘めつつ武力で大衆を鎮圧した背景を検証し、第2部「南巡講話」(92年1〜2月)では一転、保守派(左派)を排して開放路線に大きくかじを取る過程を追った。

 トウ氏の政治手法は文革時代の苦い体験に基づく。第3部「文化大革命」は、時代をさかのぼり、改革・開放の原点になったとされる下放時代から始める。

                   ◇

 江西省南昌市中心部から13キロ西の新建県。トウ小平氏は69年秋、下放労働(労働を通じた思想改造)のため、卓琳(たくりん)夫人とともに、この地に送られ、従業員80人のトラクター修理工場に配属された。

 当時、工場の修理作業班主任で、トウ氏の「上司」だった陶瑞縉(とうずいしん)氏(71)は、トウ小平夫妻が初出勤した日のことをはっきりと覚えている。

 69年11月9日、トウ小平夫妻は、紺色の作業着姿で工場に現れた。現在は記念館になっている工場の、トウ氏が使っていた作業台の前で、陶氏は思い出を語った。

 「老トウ(工場でのトウ氏の呼び名)の第一印象は『老人』だった。すでに65歳で、60歳の定年を過ぎていた。体力も経験もない老人に何をやらせればいいのかと思ったね」

 それより10日ほど前の10月下旬、工場の羅朋(らほう)・革命委員会主任(工場長)は全職工大会を開き、トウ小平氏が配属された事情を説明、こう注意した。

 「この件は家族を含め一切口外してはならない。万一、外から人が来てトウ小平の安全に問題が生じたら、情報を漏らした者の責任を問う。彼の心を刺激しないよう言葉遣いにも注意せよ」

 羅主任はかつて解放前、トウ氏が指揮した部隊の兵士で、トウ氏には特別の思いがあった。羅氏は「トウ小平打倒」「党内第2の走資派打倒」などのスローガンを撤去させ、トウ小平夫妻用の休憩室も設けた。

 工場側は受け入れに神経を使い、緊張していたが、トウ氏も同様の様子だった。陶瑞縉氏が職工たちを紹介した後、トウ氏が小さな声で聞いた。

 「ここに紅衛兵はいないのかね」

 文革の高潮期は過ぎていたが、トウ氏が気にしたのも無理はなかった。家族を含め、紅衛兵からはひどい仕打ちを受けてきたのである。

 「いませんよ。工員には30歳以上の人が多く、皆まじめな連中です」

 そう陶氏が話すと、トウ氏はほっとした表情でうなずいたという。

 トウ小平夫妻はこの2週間余り前の10月22日、監禁されていた北京・中南海(党中央機関が所在する要人居住区)の家から、新建県に送られてきたばかりだった。

 夫妻には、継母の夏伯根(かはくこん)さんが同行し、工場から1キロほど離れた旧南昌陸軍歩兵学校長の2階建て旧居に落ちついた。2階の2部屋が夫妻に、1部屋が夏さんにあてがわれ、黄文華(こうぶんか)という軍から派遣された警護兼世話役が1階に同居した。

 2年前の67年に監禁されて以来、トウ小平夫妻は5人の子供との接触を絶たれていた。子供らもまた苦労していると知っても、なすすべはない。いまは、生き抜いて時機を待つほかはなかった。

 ■毛沢東への忠誠示す

 文化大革命中のトウ小平(しょうへい)氏一家の境遇については、三女トウ榕(よう)氏が2000年に出版した「我的父親トウ小平 『文革』歳月」(中央文献出版社、邦訳は中央公論新社)に詳しい。

 トウ榕氏の著書によると、トウ小平氏は江西省に出発する前日の1969年10月21日、共産党中央弁公庁の汪東興(おうとうこう)主任に手紙を書く。その中で「一党員として一生懸命に仕事をし、労働に励む」と誓約、手紙を党中央と毛沢東に回すよう依頼したという。

 毛沢東への忠誠心を示し、再起への望みを託したものの、状況は絶望的といってよかった。

 下放される1年前の68年10月、党8期中央委員会第12回拡大会議は文革を総括、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席を裏切り者などの罪状で党から永久除名した。トウ氏は党籍は保留されたものの一切の公職から追放された。

 翌69年4月の第9回党大会では、文革を支えた林彪(りんぴょう)国防相が毛沢東の後継者に決定、林氏直系の軍人たちや江青(こうせい)女史ら極左「上海グループ」が党中央の権力を握り、文革体制が確立していた。

 復活など望むべくもない。多くの老同志が迫害を受け、監獄や労働収容所に送られ、死に追いやられた。

 劉少奇氏は69年暮れ、河南省開封で非業の死を遂げたが、王光美(おうこうび)夫人は獄中にあり、子供たちは放浪していた。

 それに比べ、トウ小平氏は幸運というべきだった。宿舎と工場を往復する毎日で、人に会うことも、町に行くことも禁じられていたが、北京・中南海での監禁生活よりはずっと自由で健康的だった。

 「老トウはトラクター部品の研磨作業などを黙々とこなしていた。あるとき作業が速く、仕上がりもいいのに気付き褒めると、『昔、(留学した)フランスでやっていた。その経験が生きるとはね』と笑っていた」と、工場の作業班主任だった陶瑞縉(とうずいしん)氏は語る。

 「父は決して希望を捨てなかった」とトウ榕氏は繰り返し書く。トウ小平氏は折に触れて汪東興氏に手紙を書き、近況を報告、中央との連絡を保ちながら、チャンスを待った。(中国総局長 伊藤正、矢板明夫)

【用語解説】紅衛兵

 文化大革命初期、学生が自発的に組織した大衆運動組織。1966年5月末、北京の清華大学付属中学(中・高校)生が名乗ったのが始まり。毛沢東が称賛した後、大学生や成人も加わって全国に拡大、江青女史らの指揮で指導者つるし上げや旧秩序の破壊など造反運動の中心になった。しかし劉少奇国家主席からの奪権に成功した67年以降、毛沢東は、分派間の武力闘争を繰り返す紅衛兵の弾圧に転じ、68年には造反運動は沈静化した。

【用語解説】文化大革命

 1966年、毛沢東中国共産党主席の主導で始まった政治、思想、文化闘争。古い文化を破壊し、理想社会を目指すとのスローガンを掲げ、あおられた学生や労働者が古参幹部、知識人らを迫害する弊害を生んだ。毛沢東死去(76年)に伴い終了。81年の党中央委総会で「災難をもたらした内乱」と位置づけられた。

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