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【トウ小平秘録】(57)第2部「南巡講話」 第2の思想解放
1992年2月28日、中国共産党中央は、トウ小平(しょうへい)氏が南方視察(同年1月17日〜2月21日)中に行った談話(南巡講話)を編集した「要点」を「92年2号文書」として、全国の党組織に通達した。この時点で南巡講話は「一老党員の意見」ではなく、党中央の公式方針になった。
しかし一般国民が南巡講話を知るのは1カ月後だった。広東省の新聞「深セン特区報」が3月26日、トウ小平氏の「深センの5日間」のルポ記事を掲載したことによる。
同紙は2月20日以来、改革・開放を大胆に進めろといった連続7本の評論を掲載、上海の解放日報や文匯報も同様の評論を発表していたが、それらがトウ小平氏の講話に基づくことに、どの文章も触れていなかった。
新華社通信は4日後の30日、特区報の記事全文を全国に配信。党機関紙「人民日報」は翌31日の第1面に大きく掲載した。同紙はそれ以前にも改革・開放加速を主張する評論を発表していた。
保守派は「発信基地」を失った。刊行物から、反和平演変(平和的手段による体制転化)、「姓社姓資」(社会主義か資本主義か)、反ブルジョア自由化といった言葉が消え、改革派の主張が取って代わった。
3月20日に開幕した全国人民代表大会の政府活動報告で、李鵬(りほう)首相(肩書は当時、以下同)は南巡講話の言葉を取り入れて市場経済の必要性を強調、3年続いた調整政策の終結を宣言した。
この劇的な保革の逆転は、南巡講話が人心を得たことにあった。国民のほとんどは社会主義の原則がどうかよりも、豊かさを渇望していた。
権力構造の面からは2つの要素があった。
1つは、トウ氏の南方視察に同行した楊尚昆(ようしょうこん)中央軍事委第1副主席が、弟の楊白冰(ようはくひょう)総政治部主任とともに、最大権力の軍を「改革・開放の護送船団」とし改革支持で固めたことだ。軍は91年の湾岸戦争で米軍のハイテク力に衝撃を受け、近代化が急務になったが、その資金獲得は経済発展が前提だった。
もう1つは、第14回党大会が秋に迫り、保革抗争が激化する中、南巡講話が基本路線になり、トウ小平氏が指導部人事の決定権を握ったことが明白になったことだ。それに逆らえば、昇進どころか生き残りさえ難しい。
当時、新華社記者だった楊継縄(ようけいじょう)氏は南巡講話を「第2の思想解放」と呼ぶ。第1の思想解放は78年12月、毛沢東の階級闘争至上路線を打破、経済建設に重点を移した11期中央委第3回総会(3中総会)だ。
しかし陳雲(ちんうん)中央顧問委ら社会主義原理派は、計画経済、公有制を主にすべしと主張、改革・開放を資本主義化とし批判し続けた。トウ小平氏は南巡講話で「社会主義とは生産力を解放し、国力を増強、国民生活を向上させること」と定義した。
それによれば、計画経済によって破綻(はたん)した毛沢東時代の中国や旧ソ連・東欧は社会主義ではないということになる。これが「第2の思想解放」である。
改革派の田紀雲(でんきうん)副首相は92年4月25日、党中央学校で痛烈な左派批判をし、こう述べた。
「経済特区を批判する自称正統マルクス主義者に、ある地域を請け負わせ、彼らの理論を実践する特区にしたらいい。問題は、その特区にだれが行くのかだ。彼らも行きはしない!」
92年5月1日、中国国営テレビは陳雲氏が前夜、上海市の呉邦国(ごほうこく)書記らと会見した映像を流した。浦東開発は順調との説明を聞いた後、陳氏は黄菊(こうぎく)市長に笑って言う。
「新聞記者から私の反応を聞くよう頼まれたのかい? 私は浦東開発に大賛成だ。浦東を開放せよ!」
南巡講話の公式テキストから削除されたが、トウ氏は、浦東を中心にした上海の経済特区化に「極めて高位の老同志」が反対したと述べたが、それは陳雲氏を指していた。
同年6月、李先念(りせんねん)政治協商会議主席が死去。陳雲氏は李氏を追悼する談話を新華社に発表(7月23日付人民日報に掲載)、こう述べている。
「李先念同志と私は経済特区に行ったことはなかったが、2人とも特区建設にずっと関心を持ち、絶えず経験を総括し立派にやるべきだと考えていた。数年来、深セン特区の発展は確かに速い。今日、わが国の経済建設は規模は大きく、複雑さが増え、改革・開放の新情勢下では過去に有効だった方法は、既に適用できなくなった」
トウ小平氏に対する事実上の「敗北宣言」だった。保守陣営は総崩れになり、経済ブームが始まる(92年の成長率は13%余)。
92年10月、第14回党大会が開かれ、「社会主義市場経済」という新たな路線を打ち出した。同19日開いた第1回中央委総会(14期1中総会)は、江沢民(こうたくみん)総書記を再選、陳雲氏に近い姚依林(よういりん)、宋中(そうちゅう)両氏は指導部から外された。
内外の注目を集めたのは、胡錦濤(こきんとう)チベット自治区書記(中央委員)の政治局常務委員への大抜擢(ばってき)だった。トウ小平氏が江沢民氏の後継者として胡氏を選んだという。
1中総会終了後、トウ小平氏は人民大会堂に出向き大会代表と会見した。その際、江沢民氏に言葉をかける。
「今大会はすばらしかった。みんなで引き続き努力するよう望む」
トウ氏の人生をかけた南巡講話は、中国飛躍への革命的一歩だったが、深刻な矛盾の出発点でもあった。14回党大会前後の動きは後に改めて検証する。
(伊藤正)
=第2部おわり
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【用語解説】浦東開発
上海市市街地の黄浦江東岸地域(浦東)の総合開発計画は1990年4月に正式に認可された。総面積は523平方キロ。金橋輸出加工区、陸家嘴金融貿易区、外高橋保税区、張江ハイテク区があり、経済特区並みの優遇措置で内外の企業を誘致、国際的な金融・工商業地区として急速な発展を遂げた。

