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【トウ小平秘録】(56)第2部「南巡講話」 改革派の大反攻
トウ小平(とうしょうへい)氏一行を乗せた専用列車は、南方視察の最終目的地、上海に向かう。一行は1992年1月29日夜、広東省広州駅を出発した後、30日午後、途中駅の江西省東部の鷹潭(ようたん)で停車した。
江西省は、文革で失脚したトウ氏が69年10月から73年2月まで下放生活を送った地だった。トウ氏の経済建設を中心にした改革・開放の信念は、この3年半の下放時代に築かれたとみられている。
トウ氏の下放先は江西省都・南昌市郊外の新建県だが、南昌から百数十キロ離れた鷹潭駅には同省の毛致用(もうちよう)書記(肩書は当時、以下同)と呉官正(ごかんせい)省長(現政治局常務委員)が出向き、トウ氏に現況報告をした。
トウ氏が「肝っ玉を大きくし、チャンスを逃すな」と言うと、傍らの二女、トウ楠(とうなん)氏が「この老人ときたら、これ一点張りなのよ」とちゃちゃを入れ、笑いを誘ったが、トウ氏は「わしの言うことは間違っているか」と毛書記らに問いかけたという。
トウ小平氏は30年代の瑞金ソビエト区時代の苦労話をした。その時代の苦難の経験もトウ氏の哲学の基礎にある(于淑雲ら著「トウ小平出巡紀事」福建人民出版社)。
1月31日朝、一行はようやく上海に着いた。
トウ小平氏が春節(旧正月)期に上海を訪れるのは88年以来5年連続だった。「完全引退」したにもかかわらず、トウ氏は91年、上海で政治への関与を再開している。92年の上海訪問は最高実力者の復権を図る南方視察の最後の舞台になった。
91年の滞在中、トウ氏は改革・開放加速を強調、その趣旨に沿って、上海市党委機関紙「解放日報」が「皇甫平(こうほへい)」名の論文を発表した。しかし保守派は「姓社姓資」(社会主義か資本主義か)論争を仕掛けて反撃、保守支配の形勢は変わらなかった。
「晩年の毛沢東が文革路線が否定されることを恐れ、トウ小平を排除し華国鋒を後継者にしたのと同様、トウ小平も死後、改革・開放が否定されることを恐れた」(香港誌「鏡報」92年4月号)
南方視察は、トウ氏が自らの名、自らの言葉で、改革・開放を守り、加速させる決意に発していた。既に各地での談話で意は尽くしており、上海では、中央の動きをにらみながら、だめ押しの発言を続けた。
92年2月3日、トウ氏が1月17日に北京を出発して以来、初めてその動静が報道された。「トウ小平、楊尚昆(ようしょうこん)同志(国家主席)が上海市の党、政府、軍責任者らと春節を祝った」という上海発新華社電だ。
国内の報道禁止は続いていたものの、高級幹部用の内部資料には海外報道が訳載され、さまざまな反応を引き起こしていた。トウ氏の南方視察には触れずに、その談話の精神に沿った評論が2月4日の「解放日報」を皮切りに出始める。
その間もトウ氏は楊尚昆氏とともに、上海で視察を続け、呉邦国書記や黄菊市長らに対し話をしている。多くは広東などでの談話と同じだが、2月11日には、「姓社姓資」に触れる。
「この問題の判断の標準は主として、社会主義社会の生産力の発展に有利か否か、社会主義国家の総合国力の増強に有利か否か、人民の生活水準の向上に有利か否かだ」
香港誌「鏡報」92年3月号によると、トウ氏はその際、保守派の集中砲火を浴びた皇甫平論文について話す。
「(改革・開放を促した)3編の文章はよく書けているし、観点も正しい。一部の者が背景を調べていると聞くが、彼らに伝えたまえ。あれは私が書きたかったことで、観点は私の話であり、私を調べろと」
2月17日には、浦東(上海の新興地区)開発に関し、前年同様、「上海を経済特区にしなかったのは私の大失敗だった」と前置きして話す。
「今が最後のチャンスだ。前進あるのみ、退路はない。浦東開発が遅れたのは良い面もある。広東の経験に学び、より上を目指せばいい。95年までに浦東が大変化を遂げれば、私はこの目で見ることができる」
トウ小平氏一行は2月20日、上海を離れ帰途に着いた。途中、南京駅で沈達人(しんたつじん)書記ら江蘇省の指導者らから報告を受け、翌21日、北京に帰着、36日間の視察旅行を終えた。
その間、各地方から入る報告で、講話内容を知った党中央は、大きな衝撃を受けると同時に、困惑する。組織上はヒラ党員にすぎないトウ氏の講話をどう扱うべきか。
当時の事情を知る幹部によると、トウ氏を事実上の最高指導者とした87年11月の13期中央委第1回総会決議は有効との議論もあったという。89年5月に訪中したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長に趙紫陽(ちょうしよう)総書記が暴露、トウ氏と決裂する一因になった秘密決議だ。
「鏡報」92年4月号によると、2月12日の政治局拡大会議で江沢民(こうたくみん)総書記は、南方各地でのトウ氏の講話内容を伝えた。江氏は講話を全党に伝達、学習を呼びかけることを決断した。
トウ小平氏は最高実力者の地位を回復、保守派に対する改革派の大反攻が始まる。(伊藤正)
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【用語解説】瑞金ソビエト区
中国共産党は1927年から、農村部支配地区にソ連を模した政治権力を組織、ソビエト区と呼び、根拠地にした。31年に各地のソビエト区を糾合して中華ソビエト共和国を樹立、臨時政府を江西省瑞金に置いたことから、瑞金ソビエト区ないし江西ソビエト区と通称された。国民党軍の包囲攻撃により、34年に共産党は瑞金を放棄して長征を開始。37年の第2次国共合作後、すべてのソビエト区も消滅。トウ小平氏は瑞金時代、某県の党書記だった。