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【トウ小平秘録】(55)第2部「南巡講話」 発展第一

2007.5.10 08:12
このニュースのトピックストウ小平秘録
1992年1月、遊覧カーで深センの民俗文化村を参観するトウ小平氏(左から2人目)。右隣は二女のトウ楠さん(ロイター)1992年1月、遊覧カーで深センの民俗文化村を参観するトウ小平氏(左から2人目)。右隣は二女のトウ楠さん(ロイター)

 ■反対する者は失脚する

 トウ小平(しょうへい)氏の公式日誌である「トウ小平年譜」には、1992年1〜2月の「南方視察」についても詳述されているが、広東省深センに到着した翌日の1月20日、劉華清(りゅうかせい)中央軍事委副主席(肩書は当時、以下同)らと会見した事実は載っていない。

 会見に同席した、当時の広州軍区司令官の朱敦法(しゅとんほう)将軍は、2004年に元新華社記者の田炳信(でんへいしん)氏に対しこう述べている(田氏著「トウ小平最後1次南行」)。

 「トウ小平が深センに到着した2日目(1月20日)の午後、会見の知らせを受けた。私は当時、劉華清に同行し、(軍区本部のある)広州から深センに来ていた。会見にはほかに、周南(しゅうなん)(新華社香港支社長)と楊尚昆(ようしょうこん)(国家主席兼中央軍事委第1副主席)も参加した」

 会見はトウ氏の宿舎で行われ、国内の解放戦争当時の思い出話などをしたとしている。楊尚昆氏の南方視察同行は公然だったが、劉華清氏の広東滞在の目的は不明のままだ。当時の香港報道によると、広州軍区はトウ氏の広東滞在中、警戒態勢を敷いたとされ、それに関連している可能性がある。

 どちらにせよ、トウ氏の視察先に軍のトップ2人が同時にいたことは、トウ氏が依然、軍権を掌握している表れだった。それは、トウ氏の南方視察に対する保守派の警戒心を高めさせ、江沢民(こうたくみん)指導部への強い圧力にもなった。

 1月23日朝、深セン視察を終えたトウ小平氏は、高速艇で1時間余南の広東省の珠海市に着く。深センと同じく珠海訪問は8年ぶりだった。同月29日までの滞在中、トウ氏は同市の梁広大(りょうこうだい)書記兼市長らの案内で連日、工場などを視察、改革・開放への確信を深める。

 珠海での重要な談話の一つは、1月25日、芳園ビルの29階にある回転式レストランで、広東省の謝非(しゃひ)書記と珠海市の梁書記に対して行われた。両氏の報告を聞いた後、トウ氏は話した。

 「この10年の成果は多かった。わが国の発展は人民を喜ばせ、世界から注目された。3中総会(改革・開放に転換した78年12月の党11期中央委員会第3回総会)以来の路線、方針、政策は正しく、だれが変えようとしても変えられない」

 それに続け、こう強調した。

 「改革・開放に反対する者は誰であろうと失脚する。一言でいえば、この路線、方針の堅持は変えない。それに反対する人には眠ってもらうほかない」

 その日、移動中のマイクロバスの中では、「84年から88年までの5年間は成長が速かった」と胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)両総書記時代を懐かしむ話もした。

 「89年からの整理整頓(経済調整)には賛成したし、必要だった。しかし、あの5年間の急速な発展は、飛躍といってよかった。『大躍進』とは違い、発展システム全体を壊すことはなかった。それが私の評価だ」

 そして、江沢民政権が継続していた「整理整頓」についてこう話す。

 「成果は上げたが、評価をすればまあまあだ。その前数年の経済飛躍がなく、経済全体が一つ上の段階になっていなければ、整理整頓もうまくいかなかったろう。まず発展が大事で、その上で必要があれば調整すればいい」

 これ以前、トウ氏は保守派批判に重点を置いていたが、この談話では、矛先ははっきり江沢民政権に向けられた。

 既に書いたように、トウ氏の南方視察には、「報道禁止」原則があり、慣例の新華社本社記者も同行しなかった。しかし広東省政府はいずれ報道が必要になる日に備え、地元の新華社など3社に取材させていた。

 香港のメディアが目を光らせ、情報入手のルートを持つ広東で秘密を守るのは難しい。まして深センではトウ氏一行は、観光施設参観など半ば公開の行動が少なくなかった。

 果たせるかなトウ氏が深セン入りした3日後の1月22日には香港紙「明報」が前日、民俗文化村を参観した際のトウ氏を写真入りで報道した。これを機に、世界中のメディアが報道を開始した。

 当時、トウ氏の広東省視察を取材した新華社広東支社の牛正武(ぎゅうせいぶ)記者は後に、香港紙の報道が始まった後、同省の謝非書記がトウ氏に3度、報道解禁の許可を求めたが、トウ氏は同意しなかったと証言している(「トウ小平最後1次南行」)。

 海外の報道が大量に流れる中で、トウ氏が広東省の地元メディアの報道を禁じ続けたのはなぜか。

 トウ氏の講話は広東省党委員会が毎日、中央に報告していた。トウ氏は、党中央や保守派支配の中央のメディアがそれにどう対応するかを観察していたという(寒山碧著「トウ小平伝」)。

 しかし、トウ氏の広東省滞在中に中央の反応はなかった。トウ氏は闘志をたぎらせ、上海に向かう。(伊藤正)

                   ◇

【用語解説】大躍進

 毛沢東が1958年に発動した急進的な大増産運動。ソ連モデルの第1次5カ年計画(53〜57年)の後、毛沢東は、共産主義社会実現への一歩として、鉄鋼などの工業生産額で15年で英国に追いつく目標を掲げ、人民公社を発足させ、大衆動員によって土法高炉による鉄鋼の増産を図った。しかし農民の生産意欲が減退、資源の浪費も著しく経済は破滅的状態に陥り、深刻な食糧不足で農村部で数千万の餓死者を出した。

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