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【トウ小平秘録】(53)第2部「南巡講話」 改革・開放への執念
トウ小平(しょうへい)氏が決意を秘めた南方視察旅行(1992年1月〜2月)の検証を続ける。
トウ氏は、元々は広東省深センに直行するはずだった。ところが北京を出発した翌日の1月18日午前、専用列車は湖北省武漢市の武昌駅で停車、トウ氏は同省指導者に保守派批判の講話をした。
その日午後4時、列車は湖南省の長沙駅に着く。駅ホームには同省の熊清泉(ゆうせいせん)書記(肩書は当時、以下同)らが待っていた。湖北省同様、トウ小平氏の秘書が前日、車内電話で省党委員会に、トウ氏が長沙駅で指導者と面談すると伝えていたのだ。
トウ氏は長沙では、武昌のような講話はせず、熊書記の報告を聞いた。書記は、91年に同省を襲った自然災害を1000万人以上動員して克服、農業生産が史上最高を記録したと報告する。それに対しトウ氏はこう話す。
「すばらしい。このような大災害にはどの国でも耐えられない。われわれ中国だけが、共産党の確固たる指導と社会主義の優越性に依拠して克服できるのだ」
一方で、湖南省の改革・開放についての報告には「チャンスを逃すな。もっと肝っ玉を大きくし、発展を速めねばならない。数年でもう一つ上の階段に上るように」と述べた(中央文献研究室科研図書館編「トウ小平人生紀実」)。
湖北省(武昌)、湖南省(長沙)での一時停車自体、本来の計画にはなかった。トウ氏の事務所は広東省に「会議は開かず、報告は不要、報道もしない」と事前に通知しており、湖南省の報告を受けたのも計画外だった。
楊継縄(ようけいじょう)氏が新華社記者時代に書いた「トウ小平時代」(下巻、中央編訳出版社、98年)によると、トウ氏は南方視察に出る前、周辺の人に次の3つの資料を用意させたという。
(1)改革・開放の10年余の成果は何で、その間最も発展が速かったのは何年だったか(2)目下、改革を否定しているのはどんな連中か。その観点は何か。最も危害が大きく、思想混乱を起こしている観点は何か(3)国際上、特に東欧の数年来の発展状況はどんなものか−。
トウ氏は十分な準備をして南方視察に臨み、その後の講話も「即興の話ではなく、熟慮を重ねたものだった」(広東省でトウ氏に同行取材した牛正武(ぎゅうせいぶ)新華社記者)。
とすれば、トウ氏は南巡講話が最も効果を発揮する戦術も考えたに違いなかった。そのためには何よりも、87歳のトウ氏がなお十分な頭脳と体力を維持していることを行動で示す必要があった。
90年春に国家中央軍事委主席を辞任、「完全引退」した後、トウ氏は江沢民総書記ら指導者とは会っていたが、公的な活動から遠ざかり、動静が伝えられることはまれになった。
91年は2月に上海で春節の集いに参加したことが報道された後、10月に香港の実業家、包玉剛(ほうぎょくごう)氏の葬儀に花輪を贈ったことや本の題辞を書いたといった報道以外はなかった。多くの国民や外国人はトウ氏は既に隠遁(いんとん)生活に入ったか、重病になったと思っていた。
後に明らかになるように、トウ小平氏は南巡講話の後、「最高実力者」の地位を回復する。その劇的なカムバックは、66年の毛沢東にも似ていた。
毛沢東はその年始めから半年以上、南方各地を視察、5月に文化大革命の先触れになる壁新聞が北京大学に出た後も消息が報道されることはなかった。内外で憶測が飛ぶ中、7月25日に人民日報など各紙が1面全部をつぶし毛沢東の健在ぶりを報道した。
その記事は、72歳の毛沢東が7月16日、武漢滞在中に15キロの長江遊泳をしたことを写真入りで伝えていた。全国が喜びにわく中、紅衛兵運動が拡大し、毛沢東は翌8月に文革開始を宣言、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席からの奪権に成功する。
毛沢東は71年夏にも林彪(りんぴょう)国防相を追い落とすため南方視察をしたが、文革前の南方視察同様、地方の支持を固める狙いがあった。トウ氏にはその必要はなかった。地方はほぼ例外なく改革・開放の恩恵を受け、特に南部では保守派への反感が極めて強かったからだ。
トウ小平氏が武昌、長沙に立ち寄り、ごく短時間にしろ湖北、湖南両省の指導者と会ったことは、南巡講話に厚みを持たせると同時に、トウ氏の健在ぶりをより強く示す狙いだったと思われる。
92年1月19日午前9時、トウ小平氏一行の専用列車は深セン駅に到着、広東省党委の謝非書記らに出迎えられ、宿舎の深セン迎賓館に入った。午前中は休息し長旅の疲れを癒やすことになった。
深セン市の李●(りこう)書記とトウ氏秘書の王瑞林氏が午後の日程を打ち合わせているところへトウ氏が現れる。
「深センに来たからにはじっとしていられない。すぐ出かけよう」
トウ氏は11日間の広東省滞在中、寸暇を惜しむように工場や施設などを視察して回り、多くの講話をする。驚異的な行動力だった。それを支えたのは改革・開放への執念にほかならなかった。(伊藤正)
●=瀬の束が景
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【用語解説】長江遊泳
1966年7月16日午前、武漢市の第11回長江横断遊泳大会を参観した毛沢東は、自らも1時間5分にわたり15キロを泳いだ。10年前には長江を3度横断し「水調歌頭」(遊泳)という詞を書いている。この遊泳については、同年7月24日に新華社が長文の記事と写真を配信、長江両岸から「毛主席万歳」の歓声が4時間以上続いたと伝えた。翌25日付の人民日報などは写真3枚とともに新華社電を掲載した。

