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【トウ小平秘録】(43)第2部「南巡講話」 重鎮の影響力

2007.4.27 07:49
このニュースのトピックストウ小平秘録

 中国共産党・保守派の重鎮で、1992年に引退(95年死去)した陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任(肩書は当時、以下同)は晩年、杭州か上海で過ごす時間が長かった。天安門事件が起きた89年も北京には5月から10月までしかいなかった。トウ小平(しょうへい)氏とは対照的に外国人とは会わず、演説もせず、会議に出ることさえまれだった。

 それでいて圧倒的な存在感を保持していたのは、毛沢東も一目置いた経済・財政理論もさることながら、高潔な人柄と透徹した観察力で他の長老の尊敬を集めていたことがあった。

 トウ小平氏の改革・開放は支持してはいたが、市場経済化には、計画経済の枠内でやる「鳥籠経済論」を唱えて牽制(けんせい)し、トウ氏に圧力をかけ続けた。天安門事件後の保守派台頭は、トウ、陳両氏の力関係の変化の反映でもあった。

 トウ氏が選んだ2人の総書記である胡耀邦(こようほう)、趙紫陽(ちょうしよう)両氏はともに「ブルジョア自由化」の罪状で失脚した。陳氏にいわせれば、改革・開放の行き過ぎが原因であり、トウ氏も責任を免れない。それを意識してか、トウ氏は事件後の6月9日、戒厳部隊幹部との会見でこう述べた。

 「調整期には計画性を強めたり、増やしたりする。今後は計画経済と市場調節を結合させる」

 トウ氏は9月4日の江沢民(こうたくみん)総書記ら新指導部との会見では、「諸侯経済」現象に対する陳雲氏の意見を紹介し、「この批判は正しい」と述べた。諸侯経済は、改革・開放の地方への権限移譲が生んだ現象である。

 《「陳雲文選」「陳雲年譜」など陳氏の関係書には、トウ氏が陳雲氏の批判を評価するくだりが掲載されているが、トウ氏関係書からはこの部分は削除されている》

 天安門事件後も改革・開放にはっぱをかけ続けるトウ小平氏に、陳雲氏は危惧(きぐ)を持ったようで、7月22日に保守派の姚依林(よういりん)副首相、8月16日に江沢民総書記をそれぞれ呼び、経済調整に関して意見を伝えている。9月8日には、宣伝担当の李瑞環(りずいかん)政治局常務委員を呼ぶ。

 中共中央文献室編「陳雲伝」や楊明偉(ようめいい)著「陳雲晩年歳月」によると、陳氏の話の核心はマルクス・レーニン主義の観点から現代資本主義をどう認識するかだった。

 陳氏は、資本主義が発展し、列強による世界分割と植民地支配にいたる5段階の特徴をレーニンの帝国主義論に立って「講義」し、こう話す。

 「レーニンの帝国主義論は第一次大戦が終結する前の著作だが、時代遅れと君は思うか。私はそう思わない。帝国主義の侵略、浸透の手段は過去は『武』ないし『文』との併用だったが、現在は『文』が際だち、特に社会主義国へのいわゆる和平演変(平和的体制転化)がそうだ」

 陳雲氏はこの8日後、李瑞環氏との談話記録を、87年に趙紫陽、胡啓立(こけいりつ)両氏と個別に行った哲学学習に関する談話記録と一緒に、中央顧問委副主任の薄一波(はくいっぱ)、宋任窮(そうじんきゅう)氏らに送り、検討を求めた。

 顧問委常務委員会は9月27日、陳氏の見解を顧問委だけでなく指導幹部の学習文献にすることを決め、3件の談話をパンフレットにして配布した。「この談話集の学習活動は長期続き、新指導部や高級幹部に重要な影響を与えた」(「陳雲晩年歳月」)

 トウ小平氏が「和平演変」に言及したのは9月16日の米国の中国系物理学者、李政道(りせいどう)博士との会見が初めてで、陳雲談話の8日後だった。陳氏の談話を李瑞環氏から聞いた結果か分からないが、その影響は大きかった。

 当時は、資金、技術の導入や加工貿易を西側との協力に依存しており、もしそれが西側による和平演変の手段だということになれば、改革・開放はしぼまざるを得なくなる。しかしトウ氏は改革・開放の推進を強調してやまなかった。

 そのためにはどうするか。4つの基本原則(社会主義堅持の4原則)を堅持し、思想教育を強化、反ブルジョア自由化闘争を徹底するというのがトウ氏の答えだった。その結果、保守派はますます発言力を増した。

 89年11月初旬の党13期中央委員会第5回総会(5中総会)では、「国民経済の整理整頓をさらに進め改革を深化させる」決定が採択された。「中央のマクロコントロールを強化し、計画を持ち、バランスをとった安定的発展で経済と社会の効益を高める」という計画経済の発想が前面に出た内容だった。

 既に経済は失速していた。89年8月の段階で、郷鎮企業(農村部の中小企業)は180万社が倒産ないし操業を停止し、360万社が半停止状態にあった(香港「九十年代」誌89年11月号)。

 郷鎮企業と同じく、改革・開放で誕生した個人営業も整理の標的になった。江沢民総書記や李鵬首相は、個人経営を「ブルジョア自由化」の温床と見なし、脱税などの違法経営は淘汰(とうた)せよと指示したという(香港誌「鏡報」89年11月号)。

 陳雲氏が杭州の別荘で静養している間も、その影響力は大きくなる一方だった。(伊藤正)

                   ◇

【用語解説】諸侯経済

 地方各級政府が保護主義的な経済活動をし、独立王国化する現象で1980年代半ばから深刻化した。計画経済時代には、地方の経済利益は中央に上納し、再配分を受けるため、地方独自の利益追求はできなかったが、改革・開放後、利益の一定部分を地方に残す改革が行われたのが背景。利益の多い加工業への重複投資や地域間での原材料の奪い合いが起こり、生糸、薬草などの他地域への流出を防止するため、武闘事件も頻発した。

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