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【トウ小平秘録】(40)第2部「南巡講話」 戒厳令なき戒厳体制
1990年1月10日、中国国務院(内閣)は、北京中心地区の戒厳令を11日から解除する決定を下した。89年5月20日の布告から約8カ月ぶりだった。
李鵬(りほう)首相(肩書は当時、以下同)がテレビ演説し、「反革命暴乱(89年6月4日の天安門事件)の平定に完全に勝利した」と宣言、さらにこう述べた。
「中国共産党、中国政府と中国人民は、世界にいかなる風波が起ころうと、揺るぎなく社会主義の道に沿って前進する」
しかし北京市民たちは「戒厳令なき戒厳体制」とささやいていた。治安部隊の武装警察の数は増加していたし、私服の公安警察の監視もより厳しくなったからだ。
戒厳令の解除は、対外関係上、「国内の安定」をアピールする必要に迫られた結果だった。
その1つには、90年秋の第11回アジア大会(北京)があった。中国にとって、初めて主催する本格的な国際スポーツ大会であり、3年前から施設の建設に力を入れていた。大会史上最多の38の国・地域がエントリーしていたが、開催には不安の声があった。
香港問題はもっと差し迫っていた。84年の中英共同声明で、97年の香港返還が決まった後、返還後のステータスを決める基本法の制定をめぐる中英交渉は大詰めを迎えていた。
香港は89年春の学生運動を支援する最大の後方基地だった。当時、中国の“大使館”と呼ばれた新華社香港支社の支社長だった許家屯(きょかとん)氏は、著書「許家屯香港回憶録」で、親中国系の各界人士がほぼ例外なく、学生運動を支持、天安門事件に衝撃を受けたと書いている。
返還後も香港の資本主義制度を維持し、広範な自治権を認めるというトウ小平(しょうへい)氏の「1国2制度」構想への不安が広がり、返還反対論が台頭した。
事件後3カ月間中断して再開した交渉で、英政府は返還後の民主主義の保証がないとして、直接選挙による立法委員の割合増を提案し、交渉は難航した。
戒厳令解除を米国はトウ小平氏のメッセージと受け止めた(ジェームズ・マン著「米中奔流」)。89年12月のスコウクロフト特使の訪中では、米中関係に進展はなかった。
マン氏の著書によると、特使の最大目的は、方励之(ほうれいし)氏の出国許可だったフシがあるという。それが米中間で「ひときわ比重の大きな問題」だったし、特使訪中前に米大使館員が方氏に荷物をまとめるよう伝えていたからだ。
トウ小平氏にとって、対米関係の打開は、経済建設を進める上で、最重点の課題だった。東欧の激変という国際情勢の変化もあって、それは頓挫したが、突破口を開く別の国があった。米国の同盟国、日本だった。
89年6月の天安門事件に、日本は欧米諸国と同様、強く反発、中国への渡航制限、無償援助の凍結、通商規制の強化などの措置を取った。同月20日には対中ODA(政府開発援助)の凍結も発表する。
この間、中国進出企業職員や留学生が続々帰国、特に6月7日に発生した戒厳部隊による建国門外外交官アパートへの銃撃事件で、日本大使館員3人の住宅が被弾した後、日本政府は邦人に避難勧告を出し、帰国ラッシュに拍車がかかった。当時の在留邦人8300人のうち8割余が一時帰国したと推計された。
しかし7月に入り、中旬の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)が近づく中で、対中制裁への慎重論が出始める。財界首脳に加え、中曽根康弘、鈴木善幸、竹下登氏ら首相経験者の意向を受け、宇野宗佑首相はサミットで強硬論に反対した。
銭其●(せんきしん)外相は回顧録「外交十記」で、8月1日にパリで会談した三塚博外相から「サミットで日本は制裁を強化しないよう主張した。中国が安定すれば、90年には第3次ODAを復活する」と聞いたことを明かし、こう書いている。
「それは当然、日本自身の利益のためだったが、日本は西側の対中制裁連合戦線の弱い輪だった。自ずと中国が西側の制裁を破る最良の突破口になった」
中国は89年9月の日中友好議員連盟会長の伊東正義元外相を皮切りに得意の招待外交を本格化する。トウ小平氏ら中国首脳と会談した伊東氏は、北京への渡航制限解除(北京以外は8月に解除済み)や対中援助再開を主張した。政府は9月25日から渡航制限を解除する。その後は訪中ラッシュになった。
11月13日、日中経済協会代表団(斎藤英四郎最高顧問、河合良一団長)と会見したトウ小平氏は冒頭、「これが外国代表団との最後の会見だ」と話した。トウ氏は4日前、党中央軍事委員会主席を辞任、引退を表明していた。
人民日報は翌日、「トウ小平同志、最後の会見」とのサイド記事を掲載したが、「最後」にはならなかった。12月1日、日本国際貿易促進協会(桜内義雄団長)代表団とも会見したのだ。
トウ小平氏は2つの日本の代表団に、天安門事件が内政問題であり、制裁は不当な干渉であること、中国の情勢は安定し、改革・開放は不変なこと、中国は日本との友好関係を重視していることなどを語っている。
当時、日本の対中ODAは中国にとって外国からの最大の資金援助だったが、それ以上に日本を米国などの対中制裁を解除する突破口にする必要があった。日本が凍結していた89年度の対中無償援助約50億円の供与に正式調印したのは12月6日だった。(中国総局長 伊藤正)
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【用語解説】香港返還めぐる中英交渉
1982年、訪中したサッチャー英首相とトウ小平氏の会談を契機に交渉が始まり、84年9月に97年7月1日返還で決着。84年12月、北京でサッチャー首相と趙紫陽首相が共同声明に調印した。香港の制度や法的枠組みに関する「香港特別行政区基本法」制定に関する中英交渉が続き、90年2月に妥結、基本法は同年4月の中国全国人民代表大会で成立した。その後も臨時立法会議員選出法で対立、返還直前まで交渉が続いた。
●=王ヘンに深のつくり

