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【トウ小平秘録】(20)第1部 天安門事件 幻の柔軟路線
北京の学生による反日愛国運動「五四運動」70周年記念日の1989年5月4日は、人民日報社説(4月26日)の強硬路線が破綻(はたん)し、趙紫陽(ちょうしよう)総書記(肩書は当時、以下同)の柔軟路線への転換が鮮明になった日だった。学生運動が平和的に終息する希望が生まれた日でもあった。
この日午前から、数万の学生が市内中心部を整然とデモ行進した。4月27日以来のデモだったが、雰囲気はまるで違って、学生たちの表情は明るかった。前日の五四運動70周年記念大会での趙総書記の演説がその大きな要因だった。
趙氏は演説で、改革と建設を進める決意を表明、それには社会の安定が必要と訴えたが、学生たちの改革要求を「愛国的」と評価していた。そこには4・26社説の強圧的表現はなかった。
学生たちは天安門広場に集まり、運動の中心組織になった「北京市大学生自治連合会」代表が「五四宣言」を読み上げて、政府との対話を要求した後、授業ボイコット中止を宣言した。翌5日から学生たちは教室に戻り始める。
学生デモと同じ4日の午後、人民大会堂でアジア開銀(ADB)理事総会が開かれ、趙紫陽氏が各国代表と会見、講話した。これが後に趙氏の罪状になる。趙氏は、学生デモについてこう説明した。
「政策運営上の欠陥を批判しており、社会主義の基本体制に反対してはいない」「ごく少数の者が運動を利用し動乱を引き起こそうとするのは避け難い」「デモは終息に向かい、動乱にはならないと確信している」
天安門事件(89年6月4日)後の6月23日、党中央委員会総会(4中総会)における趙氏断罪の報告で李鵬(りほう)首相は、この趙講話を「動乱策謀者らを鼓舞し、中央の正しい判断で緩和に向かっていた情勢を逆転させた」と厳しく批判した。が、5月4日当時は党内でも称賛と支持の声が圧倒的だった。
張良著の「中国『六四』真相」(以下「真相」)によると、李首相自身、趙氏に「すばらしい講話で、評判は申し分ありません。明日のADB代表との会見で私も同じように話します」と語っていた(実際、李首相は5日の会見で同趣旨の話をした)。
その際、趙氏は「柔らかいトーンにしたのは、学生デモを収束に終息させ、外国の資本家たちに中国の安定を確信させるためだった」と話し、人民日報の4・26社説の見直しを初めて打診した。
それに対し李鵬首相は「政治局常務委員会の決定とトウ小平(しょうへい)同志の講話に基づいており、それはできない」と拒否する。
趙紫陽氏は「反党反社会主義の動乱」という4・26社説の定義の変更に力を入れていた。4月末訪朝から戻ると、友人の許家屯(きょかとん)新華社香港支社長(党中央委員)に、北京に来るよう電話したのもその一環だった。
許氏の回想記「許家屯香港回憶録」によると、許氏は5月3日、趙紫陽氏と会う。両者の情勢分析と意見はほとんど一致するが、そこで趙氏が持ち出したのが、4・26社説の問題だった。
趙氏は「李鵬と話そうと思っている。常務委員の中では、喬石(きょうせき)と胡啓立(こけいりつ)は賛成するだろうが、問題は李鵬と姚依林(よういりん)だ」と言い、許氏に協力を頼む。トウ小平氏と親密な楊尚昆(ようしょうこん)国家主席に働きかけてくれとの依頼だった。
翌4日、許氏は楊尚昆家に行く。楊氏は、許氏が伝えた趙氏の話に完全に同意し、さらにADB代表への講話を称賛した。しかし4・26社説の変更をトウ氏に求めることには難色を示した。
「話してはみるが、老人(トウ氏)の性格は君も知っての通りだからなあ。聞き入れるかどうか」
人民日報の陸超祺(りくちょうき)副総編集長の「六四内部日記」によると、同じ4日、銭李仁(せんりじん)社長が「鮑●(ほうとう)(趙紫陽氏秘書)から2度電話があり、趙のADB代表との講話は極めて重要で紙面で大きく扱ってくれ」と要請があったと編集部に伝えている。
3日の「五四」演説、4日のADB講話はいずれも鮑●氏が起草したが、そこには趙紫陽氏の学生運動終息に向けた強い決意が反映していた。それに成功すれば、趙氏が権力の中心に戻り、改革を全面推進できるようになる可能性があった。
許家屯氏は楊尚昆氏に「今回は趙紫陽ではなく、李鵬が失脚するとの伝聞があるが」と聞いたのも、権力内部の抗争を見抜いてのことだったろう(楊氏は「だれも失脚しない」と否定)。
趙紫陽氏が流れをつかんだのは事実だったが、その前には4・26社説の厚い壁が立ちはだかる。
前年秋から杭州の別荘で静養していた保守派の重鎮、陳雲(ちんうん)中央顧問委員会主任が北京に戻ったのは5月7日だった(「陳雲年譜」)。ほどなく保守派の巻き返しが始まる。(伊藤正)
●=彫の周が丹
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【用語解説】新華社香港支社
国営通信社新華社の香港の出先機関だが、1997年の香港返還前までは報道機関としてだけでなく、中国共産党の対外工作部門と政府の在外公館の機能を併せ持っていた。許家屯氏は83年に党香港工作委書記兼香港支社長(中央委員)になり、香港返還交渉に活躍。趙紫陽氏との関係を疑われ90年に米国に脱出、91年に党を除名された。