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【トウ小平秘録】(5)第1部 天安門事件 反右派闘争
「専制手段は、必要なときには使わねばならない。使うときは慎重にすべきだが、もしだれかが流血事件を起こしたらどうするか。こちら側にけが人が出ても、事を起こした刑事犯は法により処理する。その決心がなければ、今度のような事件は制止できない。何の措置もとらなければ、われわれは後退し、面倒がさらに増える」(「トウ小平文選」第3巻)
1986年12月30日、トウ小平(しょうへい)氏は胡耀邦(こようほう)総書記、趙紫陽(ちょうしよう)首相(肩書は当時、以下同)ら6人の指導者に対し、こう話した。
この談話は、あたかもトウ氏が大衆行動への武力鎮圧を決断した天安門事件(第2次、89年6月)直前の状況について語ったようにも響く。
談話は実際には86年の12月5日、安徽省合肥で始まった学生の民主化要求デモが上海、北京、武漢などに飛び火、指導部の軟弱な対応を批判したものだ。
そして胡氏は翌月解任、トウ氏がこのとき激しく名指し批判した天文物理学者の方励之(ほうれいし)中国科学技術大副学長と作家の王若望(おうじゃくぼう)、劉賓雁(りゅうひんがん)両氏の3人(方氏以外は故人)も党を除名された。
この中で注目されるのは、毛沢東時代の重大な過ちとされている57年の反右派闘争についての発言。トウ氏は「ブルジョア階級右派に反対する闘争」と呼び、「やり過ぎた点は正すべきだが、われわれは全面否定はしていない」と話している。
当時、約55万人が「右派分子」にされ迫害を受けたが、除名された3人もその中にいた。総書記だったトウ氏が闘争の指揮を執ったことで知られる。
78年から見直しが行われ、99%以上が名誉回復された。見直し作業を進めたのが、当時の党組織部長、胡耀邦氏だった。
トウ氏の談話は、自由化思想への厳しい認識にあふれている。
「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」
「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」
だが、長い試練を経てきた3氏がひるむことはなかった。特に方励之氏は、さらに活発に動き、反体制色を強めていく。「中国のサハロフ」と呼ばれ、国際的知名度は抜群。招かれて外国に行ったり、国外で著書を出したりと、休むことがなかった。
≪反党活動の証拠収集≫
天安門事件(第2次、1989年6月)当時、中国社会科学院歴史研究所副研究員だった包遵信(ほうじゅんしん)氏(事件後、懲役5年に服役)は、89年1月28日に北京の都楽書屋の「新啓蒙(けいもう)サロン」で方励之氏の発言を聴いたときの衝撃を、台湾で出版した「六四的内情」に書いている。
方氏は、これより先、トウ小平氏に民主活動家、魏京生(ぎきょうせい)釈放を要求した目的を「人権問題が闘争目標」と説明、それには「党外、体制外から闘い、実際行動に出るべきだ」と強調していた。
「扇動性が極めて大きかった。会場は寂として声なく、拍手も起こらなかった。重爆弾を頭に受けたようだった」と包氏は書く。
その会合には、元毛沢東秘書の李鋭(りえい)氏、人民日報の元社長、胡績偉(こせきい)氏ら長老のほか、著名な改革派知識人が多数参加していた。彼らのほとんどは後の「89民運」(胡耀邦氏死去後の民主運動)を支援、自らも参加した。しかし、この時点では党外闘争や街頭行動までは念頭になかった。
天安門事件後に出た陳希同(ちんきどう)北京市党書記の報告など各種の資料では、この時の会合を含め知識人の言動や大学構内のビラを収集し、それに基づいて動乱画策の思想的、組織的準備をしていた「証拠」にしている。
陳報告のごく一部の要約を紹介すると−。
「88年12月7日、『走向未来叢書』副編集長の金観濤(きんかんとう)は北京大での討論会で『社会主義の試みと失敗は20世紀人類の2大遺産だ』と述べた」
「89年3月1日、清華大と北京大に『トウ小平討伐の檄(げき)−全人民に告げる書』という大字報(壁新聞)が同時に出、『4つの基本原則』を廃止せよと要求」
「4月6日、北京大の大字報は『社会主義にはまだ存在の理由があるのか』『マルクス・レーニン主義はわが国の国情に合わない』と書いた」
「北京の大学には、『民主サロン』『自由論壇』などが次々と登場し、北京大生の王丹(おうたん)が主宰する民主サロンは1年間に17回も講座を開催した」
言論・表現の自由がある国なら、問題にもならない話ばかりだ。ところが、中国当局は紙切れに書かれた共産党や指導者批判も見逃さず、反党活動の証拠にする。
それらの報告を受けたトウ小平氏は「反右派闘争は正しかった」と思ったに違いない。新たな反右派闘争が必要だ、とも。
(伊藤正)
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【用語解説】反右派闘争
56年の「百花斉放・百家争鳴」(表現の自由化)で噴出した共産党批判に対し、57年から毛沢東主導で始まった知識人弾圧のこと。職場に「右派分子」摘発を強制するなどして闘争が拡大、数々の冤罪(えんざい)を生んだ。81年の「歴史決議」では、対象の拡大化は誤りだったが、党・社会主義攻撃への反撃は正しかったとしている。

