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【早読み/先読み アメリカ新刊】マケインという男の全人像を描いた決定版 (2/3ページ)
■愛読書は「ローマ帝国盛衰記」と「誰がために鐘は鳴る」
マケインは、1936年、パナマ運河地帯にある米軍基地に生まれた。父親が海軍の将校(のちに海軍大将)だったために基地を転々し、高校に入るまでには20もの学校を転校している。祖父もやはり職業軍人で、太平洋戦争当時はレイテ海戦を指揮したこともある。
少年時代は西部劇映画に興じ、英雄伝を読む愛国少年だった。インディアンと戦う海兵隊の兵士、立ち向かうナバホ族の酋長、戦いで傷つき死んでいく兵士とその家族…戦場で繰り広げられる人間ドラマが大好きだった。青年期にはへミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』やE・ギボンの『ローマ帝国盛衰史』を読みふけった。
軍人になることは最初から決めていたようだが、兵隊を動かす将校の心構えはこのころから培っていた。「戦争は最後の最後まで避けるべきだ。が、ひとたび戦争となったら軍人は命を賭けて戦い抜く」
やみくもにイラク侵攻を決定、勇ましいことばかり言ってきたブッシュやチェイニー、ラムズフェルドといった「兵役回避者」とは、戦争とはなにか、国防とはなにか、といった国家の基本を考える面で大きく異なる点だけは、抑えておくべきだろう。
■激しい拷問を5年半耐え抜いた「ヤンキー・サムライ」
1967年10月26日、マケインはハノイの火力発電所の攻撃を命じられた。
マケインの乗った海軍機A−4ジェット戦闘機は北ベトナムの地対空ミサイルに撃ち落とされ、マケインはパラシュートで脱出、湖に落ちた。意識を取り戻すと、周りにはベトナム人の民衆が取り巻き、たたいたり殴ったり。ライフル銃の台尻で肩を砕かれ、銃剣で足や腹部を突かれ、戦争捕虜収容所に搬送された。たいした治療も施されず放置された。
激しい拷問を受けたが、名前、階級、認識番号、生年月日以外のことは一切明かさなかった。当時の拷問のおかげでマケインはいまなお右腕が上に上がらない。
北ベトナム軍はその後、マケインの父親が米太平洋司令官であることを知り、68年7月、息子を人道上の立場から釈放することで世界にプロパガンダを流そうとしたが、マケインは「自分を釈放するなら他の捕虜を先に解放せよ」とこれを拒否、釈放されたのは、パリ和平協定締結の2カ月後、73年3月15日だった。まさにアメリカ版サムライ精神を貫き通したわけだ。
ウェルチによれば、この間米反戦団体のデービッド・イフセン(その後ビル・クリントンの大統領選選挙参謀やユダヤ系ロビイストとなる)らが北ベトナムの宣伝に利用されてハノイを訪問、マケインに面会しようとしたことがあった。
マケインはこれを拒否したが、その後イフセンは自らの行為を恥じ、米兵捕虜たちに謝罪を求めたのに対し、マケインは「私が代表してその謝罪を受けいれる」と申し出たという。イラクのアブグレイブ収容所での米軍による拷問やグアンタナモ収容所について厳しい目を向けているのも自らの捕虜体験からくる人道主義の表れだろう。

