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【小説の中の偉人】新渡戸稲造(下) われ太平洋の橋とならん

2008.6.30 02:20

 盛岡市の官庁街のそばにある岩手公園(盛岡城跡公園)を散策すると、二の丸跡で新渡戸稲造の言葉「願わくはわれ 太平洋の橋 とならん」を刻んだ石碑を目にすることができる。

 札幌農学校(後の北大)に学んだ新渡戸はさらに明治16(1883)年、東大に入学した。SF作家、星新一の伝記的小説『新渡戸稲造』では、「将来、太平洋の橋になりたいのです…」と、政治学などのほかに英文学を学ぶわけを、面接した教授に訴えたとなっている。

 盛岡市先人記念館の田崎農巳(あつみ)学芸調査員は「日本のことを海外に、海外のことを日本に紹介する。そういう意味でかけ橋になりたいと言っています。新渡戸はこれをずっとライフワークとしていきます。一生を決める決意の言葉と言ってもいいと思います。『武士道』も、海外の人に、特に欧米の人に日本のことを教える第一歩となりました。新渡戸の象徴的な言葉でしょう」と解説する。

 学者や国際連盟事務次長が長かった新渡戸の経歴の中で、台湾総督府技師として働いた34年からの2年間はかなり異質に見える。「サトウキビの改良品種をハワイから輸入し、現地農民の意識を変えさせ、計画をみごとに軌道に乗せてしまった。頭だけの学者ではなかった」と、星は記した。

 田崎さんは「後藤新平の要請もあったが、新渡戸は開拓をするための技術、植民学を学ぶ学校、札幌農学校で勉強していました。新渡戸や後藤、総督の児玉源太郎の考えは基本的に、植民地イコール搾取では決してなく、そこにいる人たちの生活を向上させることでした。その土地の人の生活を安定させるための政策をしました。いまでも親日家が多いのは、そのためだといわれています。実際、新渡戸は『植民政策とはギブ・アンド・テークでなければならない』と言っていました。一般的に植民地支配というと悪いイメージしかないが、特に台湾の場合は良好な関係が保たれていたというのは事実だと思います」という。

 新渡戸が国際連盟の事務次長を務めたのは大正8年から15年まで。連盟設立を提唱したウッドロー・ウィルソンとはジョンズ・ホプキンス大学の同窓だった。不思議な縁というべきか。

 田崎さんは「国際連盟で新渡戸の功績として代表的なのは国際知的協力委員会の設置。いまのユネスコのもとになっている」と語る。『新渡戸稲造』には、「アインシュタイン、キューリー夫人、ベルグソンなどが委員だった。(中略)新渡戸はその会の幹事長をつとめ、それらの人びとをジュネーブの自宅に招待したりして親しく交際した。大正十一年のアインシュタインの来日は、その結果である」と記述されている。

 星はまた、「新渡戸の伝記でもうひとつふしぎなのは、(中略)原敬との交友が、ぜんぜん出てこないことである。同じ南部藩の出で、原が六歳の年長。本来なら、もっとつきあいがあっていいはずである」と書いている。2人の関係はどうだったのだろう。

 新渡戸と原に接点はあった。田崎さんは「新渡戸が一時養子となった叔父の太田時敏は南部家の家令、原は南部家の顧問をやっており、太田と原は随分親しかったらしいです。また、原が総理大臣になったときに東京で、南部同郷会という旧盛岡藩士たちの集まりがあり、この晩餐(ばんさん)会で、新渡戸は原と会っています。語り合って、新渡戸は家に帰ってから『この人は素晴らしい人だ』と娘さん(正確には養女)に話したそうです」。

 ただ、原と新渡戸はあまり密接な関係ではなかった。大正4年ごろ、原がいた政友会とは別の立憲同志会から新渡戸を出そうという話が持ち上がり、関係が微妙になったらしい。結局、後藤新平の仲介で、原が「無意味な争いをするのはやめよう」と申し出て、新渡戸が衆院議員になることはなかったが。

 「新渡戸は武士道で有名ですが、彼が基本的に日本人に伝えたかったのは平民道、いわゆる民主主義のことでした。原敬は大正デモクラシーの推進者として活躍していたので、思想的には相いれるものがあったと思います」。田崎さんはこう推察している。

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 連載「小説の中の偉人」は、浦田敬三氏の『資料・岩手の近代文学』を基に企画しました。(土樋靖人)

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 【用語解説】盛岡市とビクトリア市(カナダ)

 ビクトリア市は2010年に第21回冬季五輪が開催されるバンクーバーの近くにある北米西海岸の小都市。盛岡市が新渡戸稲造生誕の地、ビクトリア市が終えんの地ということを縁に、昭和60(1985)年、姉妹都市となった。以後毎年約1週間、盛岡市の中学生とビクトリア市の中高生各15人ほどが互いの地を訪れ、国際交流への理解を深める。20周年を迎えた平成17年には市民訪問団が行き来した。新渡戸が亡くなったロイヤル・ジュビリー病院には記念庭園がある。

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