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奈良・王寺で戦国時代の砦跡 争乱の地「馬ケ脊城跡」か
奈良県王寺町本町で、戦国時代(16世紀後半)の砦(とりで)跡が町教委の調査で見つかっていたことが分かった。在地武士団の片岡氏が、室町幕府13代将軍・足利義輝を殺害したことで知られる戦国武将、松永久秀(1510〜1577)と戦闘を繰り広げたと伝えられる“幻の砦”「馬ケ脊(せ)城跡」の可能性が高いという。同城跡では改修の痕跡も確認されており、数年後に織田信長が久秀攻略で再利用した可能性も浮上。群雄割拠の争乱を物語る貴重な資料となりそうだ。
町教委は、宅地造成に伴って丘陵頂上部約1300平方メートルを調査し、周囲に溝を巡らせた壇状の施設(南北24メートル、東西15メートル)を確認した。溝の内側には土塁があり、南北両端に門が設けられていた。柱穴が見つからなかったことから、本格的な櫓(やぐら)は設けられず、有事のたびに兵士が詰めて戦闘したとみている。
片岡氏は、現在の王寺町や上牧町、香芝市一帯を統治した武士団で、馬ケ脊城跡から約2キロ南東の片岡城跡(上牧町)に本拠をもっていた。一方、松永氏は馬ケ脊城跡から約4キロ北西の信貴山頂(標高437メートル)に築かれた信貴山城を拠点とし、馬ケ脊城跡は両勢力が対峙する最前線だったという。
明治時代に編纂された「北葛城郡史」によると、元亀2(1571)年、当主・片岡春之は放光寺(王寺町)に陣を構えて久秀と対峙したが、馬ケ脊城に逃げ込んで落城したとされる。ただ、同城の存在は戦前までは地元で伝えられていただけで、今回の発掘調査で初めて存在が裏付けられた。
さらに、同城跡の溝は掘り直され、南門は外敵の侵入を防ぐため鍵形に屈曲した構造だったことも判明。同構造の門は織田氏系統の砦によく見られることから、天正5(1577)年、信長が信貴山城にこもる久秀を攻める際、馬ケ脊城を砦として使った可能性が浮上。信長を再三裏切り、ついに自害に追い込まれた久秀の運命をうかがわせる資料になった。
王寺町教委の岡島永昌主事は「馬ケ脊城からは信貴山城跡などがよく見え、片岡氏はここから相手の動きを探りながら戦略を練ったのではないか」と推測している。
発掘現場の写真は、橿原市畝傍町の県立橿原考古学研究所付属博物館で9月7日まで開かれている19年度発掘速報展で展示されている。