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【この人あり】国連ボランティア計画終身名誉大使・中田武仁

2008.5.10 02:50

 ■父と息子は互いの理解者 

 中田と妻の敬子は、厚仁が幼いときから「あっちゃん」「アツ」とは呼ばず「厚仁」と呼んだ。車は「車」と教え、「ぶーぶー」などの赤ちゃん言葉は一切使わなかった。

 「それまではうちの家庭が特別だと思ったことはなかったんですが…」。事件で厚仁の人となりが注目され、世間に知られるようになった「中田家の子育て」は、実にユニークだ。

 例えば、飲み物。小学生のうちは水とさ湯だけで、紅茶やジュースは飲ませない。「お酒やたばこのように、社会にはその年齢にならないと許されない決まりがあることを分かってほしい」との思いからだった。

 中田の信条は「どういう子供になってほしいかは、どういう自分であるかということ」。子供に望むことはすべて自ら実践した。

 それを言い表すエピソードがある。厚仁が3歳のころ、人形を買って帰ると約束したが、帰りの時間が遅くなった。店はすでに閉店。厚仁が朝起きる前に買いに行くことにして帰宅すると、厚仁は寝ずに待っていた。中田はそのまま店に引き返す。事情を説明して人形を売ってもらった。

 中田にとって、子育ては自分自身との闘いだった。

 厚仁が大きくなってからは、縁側にいすを並べ、あるいは散歩をしてよく話をした。厚仁の考えを聞き、疑問があれば尋ね、そのうえで具体的なアドバイスをするのが中田のやり方だった。

 厚仁が外資系のコンサルタントに就職するときは、契約年数や福利厚生の有無を尋ね、分かっていないことを調べさせた。カンボジアに行くときも、国連職員とボランティアの違い、現地での安全確保の方法などを細かく聞き、さらに身の危険を感じたら国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の指示を待たずに出国するようにと伝えた。

 しかし、最後の決断はいつも厚仁に任せた。だからこそ、中田は常に「厚仁の一番の理解者」だったという自負がある。厚仁の死という最大の悲劇を何とか受け入れられたのも、中田自身が「厚仁の信念は正しかった」と強く信じていたからだろう。

 中田にとっても、厚仁はよい理解者だった。厚仁が就職活動中、「どこの商社にも父さんみたいな世界観の人はいなかった」と言った言葉が忘れられない。いつからか互いを認め、尊敬しあっていた。

 事件の2カ月前。一時帰国を終えた厚仁を香港の空港で見送った。親子の強い絆(きずな)が別れを予感させたのだろうか。「二度と会えないかもしれない」。厚仁の背中を追いながら、中田は涙が止まらなかった。

(敬称略)

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