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【この人あり】島田叡が脳裏に浮かんだ 前兵庫県知事・貝原俊民(9)
フラッシュが瞬く中、貝原は静かに会見用の席に腰を下ろした。4期目半ばの突然の退任会見。平成13年5月22日のことだ。いつもと変わらぬ静かな口調で、貝原は退任の理由を語り始めた。
「私の進退問題について、大変お騒がせいたしました」
7年1月の阪神・淡路大震災は、貝原が3選を果たしたわずか2カ月後に起きた。復興には10年はかかる。山積する課題を片づけることなく、引退するわけにはいかない。貝原は自身をそう奮い立たせてきたが、震災から6年が経ち、心境に変化も出始めていた。
13年3月末に終えた15カ年計画は軌道にのり、震災復興計画も順調だ。同年4月に天皇・皇后両陛下が被災地を視察された。「知事としての役目は終わった…」。その実感があった。
参院選への出馬、夫人の健康問題…。当時、引退説を裏付けるような憶測が乱れ飛んだが、貝原の心は1つだった。
「多くの犠牲者を出してしまったときの知事として、何らかのけじめをつけるべきだ」
会見で退任の弁を述べながら、1人の人物が脳裏をよぎった。亡くなるまで県民と苦難を共にした沖縄県の最後の官選知事、島田叡(あきら)だ。「島田のように生きたい」。知事になることを決意した時、思い浮かべた理想像だった。
《島田は旧制神戸二中(現兵庫高校)卒。第二次大戦末期の昭和20年1月、誰もが固辞した沖縄県知事を引き受け、米軍上陸におびえる沖縄の人々の安心・安全を祈って全力を傾け、同年6月に戦没した》
震災を忘れまい。教訓を忘れまい。貝原は震災が起きた1月に辞意を決意する。後事を託した井戸敏三(現知事)や、副知事の藤本和弘(当時)に伝えたが、一笑に付された。が、決意は変わらなかった。
引退から6年後の19年春。貝原は旭日大綬章を受けた。実はそれ以前にも叙勲受章を何度か打診されていたが、「あれだけの犠牲者を出した知事として辞退すべきだ」という思いが拭えず断り続けていた。
「県民と、県政を支えて努力した県職員に対して授与されている」と知人から叱責され、受け入れた。祝賀会はすべて断り、逆に貝原主催の感謝の会を、復興の象徴でもあるHAT神戸の県立美術館で開いた。
「これまで支えてくれた人に感謝の誠を捧げたい」。
それも曇りのない貝原の思いだった。(敬称略)