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【この人あり】坂井の慰留要請に応える 前兵庫県知事 貝原俊民(5)
東京大学卒業後、自治省(現総務省)に入省した貝原は「見習いから課長補佐までの間に地方税財政のエキスパートとなるための修行をした」。兵庫県に地方課長として赴任したのは昭和45年5月。当時の知事は金井元彦(故人)で、翌年、坂井時忠(同)にバトンが渡された。
同年は『人類の進歩と調和』をテーマとした大阪万博も開催され、高度経済成長の絶頂期。だが一方で、公害や過疎問題などの地域課題がクローズアップされた時期だった。
「わが国の1つのターニングポイントだった。成長から成熟への調整期に入る時代的転換の時期に地方課長、財政課長として県政の中枢に参画することができた」
その言葉が示す通り、貝原は当時、日本海と太平洋に面する兵庫の魅力にひかれ始めていた。
4年目の49年にあった坂井2期目を期す知事選。副知事だった一谷定之丞との保革対決の構図だった。しかし両者にイデオロギーの対決はなかった。
《坂井は警察庁警務局長などを歴任し、副知事を経て知事になったエリート。一方の一谷は県の課長から部長、教育長などを経て副知事になった“生え抜き”だった》
結果は坂井が圧勝。しかし、庁内や関係団体を二分する選挙は、大きなしこりを残すことになった。
このころ、貝原には自治省から本省復帰について強い要請があった。折しも第1次石油ショックで県財政が極度に悪化。しかも選挙の後遺症で県政はギクシャクしていた。
「立て直しのために何とか残ってもらえないか」
坂井の言葉に貝原は迷った。実は坂井はこのとき、自治大臣経験者で同省に強いパイプのあった県選出の衆院議員、渡海元三郎(渡海紀三朗・現文部科学相の父)にも相談し、同省に貝原を残すよう働きかけていた。
同じ佐賀県出身の坂井の信頼を裏切れない。貝原は慰留要請をのんだ。このとき本省に戻っていたら、後に兵庫県知事となり、大震災の苦渋、苦難を経験することはなかっただろう。
人生の半分以上を兵庫で過ごした。「まさか兵庫で骨を埋めることになるとは思わなかった」。長男、次男も神戸で暮らし、来年で金婚式を迎える妻は病床に伏す。「できるだけそばにいて、静かな生活を共にするよう心がけている」。共に歩んだ人生の重さが、貝原にそう言わせているのかもしれない。(敬称略)