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【日の蔭(かげ)りの中で】京都大学教授・佐伯啓思
■「貨殖術」から「経国済民」へ
少し前、経済学の教科書をひらくと、最初に次のことが書いてあった。経済(エコノミー)とは、家(オイコス)についての統治術(ノモス)である、と。日本語でいえば「経国済民」、すなわち、国をうまく統治し、民を救うことである。
いずれにせよ、経済とは、一国の統治にかかわり、国民の福利厚生を高めるものということである。これは教科書に書いてあったことではないが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、この観点から、金もうけを「貨殖術(かしょくじゅつ)」と呼んで非難した。一国で、人々が必要とするモノを作り出し、それを公正な価格で売ることが大事なのであって、貨幣的な利得を目的とした「貨殖術」は、そもそも「経済」に反する、ということであろう。
むろん、今日の巨大な産業社会に、小ぢんまりとした古代ギリシャを重ねることは無理があろうし、古代ギリシャにはサブプライムローンもリーマン・ブラザーズも存在しなかった。だから、このグローバリズムの時代にアリストテレスの名前を持ち出すことはいかにも場違いではあろう。しかし、それでも、確かに、今日の経済学の教科書にも、経済という活動が、一国の安定や国民生活の幸福を目指すところから始まると書いてあったのだ。そしてこの事実は、今日でも決して無意味になったわけではない。
アメリカのダウ平均の上昇とともに、日経平均株価が一時、1万円を回復し、経済危機は去ったというのが一般的な論調となっている。景気が底を打ったという安心感と将来への楽観的期待の表出という見方が支配している。そうかもしれないが、別の見方をすれば、景気対策として世界中にばらまかれたお金がまたもや金融市場へと流れ込んでいるともいえる。実体経済以上の株価の上昇と、上昇期待による利得の獲得がさらに上昇を招く現象をバブルというなら、100年に1度といわれる大不況の真っただ中でミニバブルが発生しつつあることになろう。
昨年来の経済危機が、あの手この手を使って利益を生みだすという金融商品や金融工学、すなわち現代の「貨殖術」によって引き起こされたとするのなら、株価の急上昇を手ばなしで喜ぶわけにもいくまい。またぞろ、誰もが手っ取り早い「貨殖術」に励むとなると、いずれまた「危機」はやってくる。だから、一見したところ、危機は去ったように見えてしまうことこそが本当の「危機」だともいえよう。
今回の経済危機の本質は、誰もが「貨殖術」にうつつをぬかし、本来の「経済」を忘れてしまった点にある。繰り返すが、経済とは、一国の安定と国民の福利向上を第一義とする活動なのである。金融市場を膨張させ、株価を上げて利益を生みだすことが経済の目的ではない。
それでは、今、日本にとって「経国済民」とは何を意味するのだろうか。日本が今後求めるべき豊かさとは何であろうか。
これは実は大変な難題である。しかし、ほぼ明白なこともある。まず、この10年以上にわたるグローバルな市場競争は日本にとっては、決して結構なものではなかったし、今後もそれは決して日本の「経国済民」にはならない、ということだ。
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人口減少、高齢社会化、消費需要の低迷、勤労意欲の低下に直面している日本が、グローバル市場において、いずれにせよ大国化してゆく中国、ロシア、インドなどとの競争によって、経済成長をとげることは不可能に近い。また、誰も、このグローバルなコスト競争の中で、これ以上の労働を強いられ、賃金の低下に直面することを好ましいとは思っていない。
要するに、日本のような相当に成熟した経済大国は、競争至上主義と成長至上主義をそろそろ脱しなければならないのだ。きたるべき「脱成長社会」の構想を用意しなければならない。そして、困難は、それを、グローバルな市場競争一辺倒の世界情勢のなかで行わねばならない、という点にある。日本の目指すべき方向は、資源や市場のグローバル競争で利得を得ようとする新興国やアメリカとは立場を決定的に異にするのである。
確かに日本はいささか例のない独特の立場に置かれているおり、独自の「経国済民」構想をもたなければならない。だが、本当は、これは日本だけではなく、世界全体の課題なのである。膨張したグローバル金融市場の「貨殖術」も、グローバルな市場競争も、世界経済を不安化するだけだ、という認識が広がってもいるからだ。100年に1度の危機は100年に1度のチャンスでもある。グローバル競争主義、成長至上主義という価値観を見直す絶好のチャンスであり、それを発信できるのは、実は日本だけなのである。(さえき けいし)